お腹の奥からざわざわとした何かが噴き出してきた。
そしてそれはそのまま僕の口から声になって飛び出した。

「ママ…」

それはそんなに大きな声じゃなかったと思う。
どちらかというと掠れた、まるでパパの寝起きの時の様な声だった。
でもその声は不思議とママに届いた。

多分。
僕はその時のママの顔を一生忘れないと思う。

宙を漂う僕の呼びかけを耳にした瞬間、ママの瞳は大きく見開かれ、そして急いで知らないおじさんと握っていた手を振りほどいた。
そして眉を少しだけ歪めた。
それは僕がいたずらをしたり失敗をしたりした時によくする仕草だ。
でもその眉はすぐに見慣れた優しい姿に変わり、とても優しい「いつもの声」で僕の名を呼んだ。

「あっくん?」

本当に目の前にいるのが僕なのか確かめる様に。
けれどその声の中には「何故こんな所に?」という非難めいた匂いがあった。
非難?
まさかそんな筈ない。
ママが僕を責めるなんてそんなの僕の考えすぎだ。
辺りがこんなに暗いんだから僕の顔がよく見えなくてそんな風に僕の名を呼んだんだ。
そうだ。
絶体にそうだ。

そう強く思い直したけれど、僕の胸はフォークか何かでかき回されたみたいに苦しくなった。
僕が走り続けながら何度も想像していたママの反応は全然違ったから。
ママが僕を見つけたらその瞬間にまん丸の笑顔を浮かべると思ったんだ。
そして僕に駆け寄って僕をぎゅうと抱きしめて、そして「会いたかった」って頭を撫でてくれると思ったんだ。
コンビニでママの為のお土産を考えている時は、迷惑がられたらどうしようとその事ばかりを気にしていたけど、おじさんと話をした後は
そんな心配が吹き飛んでしまった。

『ママは僕の事が好き』

それだけを信じて僕は山道を駆け下りてきた。
ママの笑顔をゴールと決めて。
なのに。
今の僕は場違いな場所に突然現れたずぶ濡れのネズミのような気持ちになっていた。

「あっくん。こんな遅くにいきなりどうしたの?パパはここに来た事を知ってるの?」

ママはとびきり優しい声で僕に問いかけた。

僕はそれに答えようと口を開いたのに声が出なかった。
ママに近づこうと足を動かそうとしたのにピクリとも動かなかった。

ママは何の反応もない僕を数秒見つめた後に隣にいるおじさんに小声で何かを話した。
するとおじさんは小さく頷きその場を離れていった。
おじさんの影が暗闇に溶け込むとのを見届けるとママはゆっくり傍に寄ってきて優しく僕の肩を抱いた。
そして「ここは車が来て危ないから公園でお話ししましょう」と僕に話しかけた。
僕はママに促されるままに固くこわばった足を引きずって公園に向かった。

ぎぃ。
ぎぃ。

小さく風が吹く度にブランコの揺れる音が僕とママの座っているベンチまで届いた。
5分?それとも10分?
ママは何も言わずにただその音だけを聞きながら僕の横に座っていた。
そして僕の方はママに会った時に言おうと用意していた言葉全部を抱えたまま、ただ黙って地面を見ていた。
一秒たつたびに場違いな所にいる気持ちは大きくなって、抱えこんでいた言葉を鈍い力で少しづつ押しつぶした。
でも言葉が残らずぺしゃんこになる寸前にママは口を開いた。

「あっ君が会いに来てくれてママとっても嬉しいわ。最近ずっと電話でしか話してなかったから顔が見たくて仕方がなかったのよ」
「………」
「ねぇ、もっとよく顔を見せて」

僕が何も答えないでいるとママは僕の顔に暖かい掌をよせて、覗き込むように顔を近づけた。
その掌からはママの愛用しているハンドクリームの匂いがして、僕を見つめるその瞳は以前と少しも変わらない優しい光があった。

でも。
でも何かが前とは少しだけ違ったんだ。
キャンディを包んだ薄い内紙を透して景色を見たように、僕の大好きなママの笑顔はなんだか現実感がなかった。
そして現実感が無かったからこそ、僕はお腹の中でざわめいていた疑問をそのまま口に出せた。

どんな答えが帰って来てもその薄紙が僕を守ってくれるような気がして。

「あのおじさんは誰?ママはもううちに帰って来ないの?」

僕の顔を包んでいたママの掌が不意に固くなった。
それから僕を真っ直ぐ見つめていた瞳が静かに逸れた。

「あの人は以前ママがパートに出ていた時の店長さんよ。色々な相談に乗ってくれる親切な人なの。
それからママは…」

ママは言葉を一度切った。
突然、僕の心臓は大きな音を立てて早くなった。
どきんどきんどきん。
自信のない算数のテストを先生から返される時よりも、ドッチボールの内野で最後の一人になった時よりも、ずっと強く心臓が胸の奥で跳ねている。
ずっとずっと大きな音で。

「ママは多分あの家にはもう帰らないと思うの」

どきん。

心臓の音が耳の奥まで届いた。

「ママはパパと離婚するのよ。だからあの家には帰れないの。ねぇ、あっくんはパパとママ、どっちと一緒に暮らしたい?」

びりり。
景色を覆っていた薄紙が破れて、そこから暗くて生々しい暗闇がねじ込むように僕に襲いかかってきた。

りこん?
パパとママが一緒に暮らせなくなるって事?
僕がパパとママと一緒に居られなくなるって事?
じゃあ、じゃあ、僕はどうなるの?
僕が一番欲しいものはどうなるの?
あの大好きな日曜日はパパとママが揃ってなくちゃ二度とやってこないんだよ?
大嫌いな日曜日の代わりに、大好きな日曜日が毎週やってくるなら、誕生のプレゼントも、クリスマスのプレゼントも、お年玉だって全部いらない。
運動会のお弁当がこれからずっとコンビニのおにぎりでも平気だ。
パパとママの望むことは全部ちゃんとやれるよ。
もしかしたら次の運動会のかけっこでも一番にはなれないかもしれないけど、ちゃんとやれるようにがんばれるよ。
かけっこの練習がどんなに苦しくても僕は我慢できる!
だって僕は我慢するのは得意だもん。

今までずっと我慢してきた。
パパとママの為にそうしてきた。
そうしてれば少なくとも一番酷い事にはならないって信じてたから。
そう信じるしかなかったから。

なのになんで?
なんでパパとママは僕の気持ちを放り投げて、僕が欲しいたった一つのものを取り上げるの?

「……ん…で」

さっきより、ずっと掠れた声が喉の奥から這い出した。
ゆっくり這い出したその声は、次の瞬間には恐竜が暴れだしたみたいな大きな声に変わった。

「なんで平気でそんな事聞けるの!?
なんでそんな簡単に僕の気持ちを見捨てちゃうの!?
パパとママ、どっちを選ぶかなんて僕にはできないよ!
僕はママに会いたかった!
ママが好きだから会いたかった!
走ってるうちにママも僕を好きかもしれないってどんどん思えてそれがとっても嬉しかった!
僕が好きなら家に帰って来てくれるって、帰れないのは悪い奴に捕まってるからだって、そう思った!
そいつをやっつけるスーパーマンになってパパの代わりにママを取り戻すんだ!
そう信じて僕はここに来たんだ!
なのになんでそんなこと言うの!?
ママはっ…!
ママはホントは僕の事なんて好きじゃないのっ!?」

僕は一気にそうまくしたてた。
何も考えてなかった。
ただ胸の奥から噴き出してきた気持ちをそのまま口にした。
おじさんは僕に『思った事をそのまま伝えればいい』って教えてくれて、僕もそうしようって決めた。
でも僕の思い描いてのは『ママが大好き」っていう口にするだけで嬉しくなる言葉で、決してママを責める言葉なんかじゃなかった!
なのに。
なのにどうしょうもなかった。
僕の体は裏切られた気持ちで一杯だったから。
ぼんやりと、でも期待を込めて信じていたママの僕への想いを踏みにじられた気がしたから。

ママは僕の叫びを聞きながら顔を歪めた。
目に涙が浮かんでる。
それを見た途端、胸の奥がぎゅうって何かに絞られた様な気持ちになった。
僕はママをいじめたいわけじゃない。
いつも幸せな笑顔を浮かべていてほしいと心の底から願ってた。
本当に、心の底から。

でも。
でもこの瞬間、そのママの涙は…。
僕の胸から絞り出された苦い液体よりずっと軽く見えて僕の気持ちに釣り合わないって思ったんだ。

「ママはあっ君が大好きよ。家を出てからも毎日毎日あっ君のことばっかり考えてた。
寝る前にはいつも。ご飯を食べててもあっ君の好物を見る度に食べさせてあげたいって思ったわ。
この公園から子供たちの笑い声が聞こえる度に胸が苦しくなって、あっ君に会いたくて仕方がなかった。」

ママの瞳からは大粒の軽いしずくがぽろぽろと生まれ、そして地面に落ちていった。

ああ、この光景はよく知ってる。
日曜日の夕方に、何度も何度も繰り返し見た光景だ。
泣いてるママを慰める為に、自分の腫れた心を押し込めて一生懸命励ましていた時と同じものだ。

がしゃん。

ふいにブランコの方から大きな音がして反射的に目をやった。
ブランコの上には一匹の黒猫が飛び乗っていた。
闇に浮かぶ緑の瞳は僕達を見つけた途端に細くなり、次の瞬間には緑の光ごと跳ねて消えた。
後にはぎいぎいと音を立てながら、さっきより大きく揺れるブランコだけが残った。
揺れるブランコ。
その揺れは今の僕に重なった。
ママが好きと言う気持ちとママに裏切られた様な気持ちと。
その両方を行ったり来たりしている僕のこの気持ちに。

「いきなりママが居なくなってしまってあっ君がどんなに寂しかったかママにも分かるわ。
でも仕方がなかったの。あっくんも分かってるでしょ?パパとママがいつも喧嘩ばかりしてる事を。
ママはそういう事にもう疲れ切ってしまったの。
でもあっ君を大事に想う気持ちは今だって全然変わってない。それだけは信じてほしいの」

何…それ。
ママは僕が好きで僕を大事に想ってる?
だったらなんで僕の目の前で僕の大好きなパパを罵るの?
僕が望んでるのはパパとママが仲良くして僕の事を好きでいてくれる、たったそれだけのことなんだよ?
僕はパパと仲良くする、僕はママと仲良くする、そして僕はパパとママが大好きだ。
僕は二人が大事で大好きだから僕たちの三角形を壊さない様にずっと頑張ってきた。
それが一番幸せになれる近道だって信じて。
なのにそれを自分で壊したママがなんで僕を大事に想ってる何て言えるの?

「帰らないなんて……。
そんな事平気で言えるママが僕を好きだなんて信じられないよ。
ママはなんにも知らないんだ。
パパは何も言わないけどママがいつか帰って来るって信じてるんだよ!?
その証拠に休みの日には必ずママの布団も一緒に干してるんだ!
ママが毎日見ていた朝のドラマだってずっと録画してる!
ママが大事に育てていた…植木にも毎日水を…やってるんだよ?
ママがうちにいる時は…そんな事一度だってした事無いのに……パパは…」

叫んでいる最中、僕の喉は少しずつしょっぱくなっていった。
ママの姿もぼんやり歪んで見える。
しゃっくりで何度も中断されて言葉が一度に吐き出し切れなくなっていった。

「パパは…ママの帰りを待って…るんだ。
僕もママを…長い間…待ってる。
…昼間は学校で…友達と遊んで気持ちを紛らわして…夜は…パパに心配かけない様にテレビを見てるふりして…
でも寝る時だけはどうしても寂しくて…家に残ったママのかけらをかき集めて我慢した。
ママの使ってた櫛や…枕や…パジャマをベットの中に持ち込んで…我慢…した……んだ。
もう…ダメ……だよ。
もう我慢するの僕には無理だ!!!!」

僕は我慢するのは得意だ。
でもそれは。
ママに僕を好きになって貰いたいから出来た事なんだ。
なのにママがうちに帰って来ないとしたら………。

ママがどんな顔をしているか僕にはもう全然分からなかった。
涙でママの顔がもう見えなくなっていたから。
でもママが今の僕と同じように、しゃくりあげながら泣いているのだけは分かった。
ブランコが揺れる音と一緒に、ママの細いしゃっくりの音が僕の耳に届いたから。

「ごめんね。ごめんね。あっ君に寂しい思いさせてごめんね」

ママは泣きながら何度も僕に謝った。

「ごめんね。ごめんね。」

その声に僕のぺしゃんこに潰れた心は少しだけ力を取り戻したんだ。
ママがこんな風に僕に謝る時は、必ず僕のお願いを聞いてくれる時だから。
今までずっとそうだったから。

「あっ君ごめんね。…でもママは家に戻る気はないの」



………え?


今なんて言ったの?
よく聞こえなかった。
あふれた涙がママの姿を見せなくした様に、悲しい気持ちが僕の耳をふさいだの?
僕はぐいと手の甲で涙をぬぐった。
視界が元に戻れば耳も元に戻る気がしたんだ。

涙をぬぐうとママの顔がはっきり見えた。
ママは涙でぐしゃぐしゃになった顔を僕に真っ直ぐ向けていた。
そして今度ははっきりとこう言った。

「ママはもう決めたの。家には戻らない」

その言葉の意味が頭の芯に届いた瞬間、足元が突然崩れて宙に放り出された気がした。
ベンチに座っているはずなのに、お尻も足も、どこにも触れていないみたいだ。
気持ちを落とす場所が無くなった僕の体は、支えるものが何もない闇の底に飲み込まれそうになった。

嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。

ママの言葉も。
ママの目の前にいる僕自身も。
そしてこのままどこかに飲み込まれてしまうのも。

誰か僕を助けて。
パパ。
おじさん。
おにいちゃん。
おじいちゃん。
誰か!!!

『どんなに変わってしまったとしてもばあさんの魂は元のまま変わらん。』

ふいにどこからかおじいちゃんの声が聞こえた。
そうだ。
おじいちゃんはそう言った。
そして僕はその証拠をこの目でちゃんと見たんだ。
心がぼわっと暖かくなる『大好き』って気持ちを。

魂は元のまま変わらない。

そうだ!
そうなんだ!
僕の目の前にいるママがどんなに現実感が無かったとしてもママはママだ!
あの優しいママの魂が変わる事なんてないんだ。
だから僕がもっとちゃんと頼めばきっと…!

「ママ!お願いだから僕とパパの所に帰って来て!」

わずかに残った全ての力をかき集めて僕は叫んだ。
僕の気持ちがママに届くように。

「……ごめんね。あっくん」

けれど。
けれどママは、さっきと少しも変わらない調子で僕に謝った。
そしてその言葉は僕の心からの願いをママが拒絶した『しるし』だった。

「ママなんて大っ嫌いだ!!!!!!!」

そのしるしを額に受けた瞬間、僕はそう叫んだ。
そう叫ぶ以外に何もできなかった。
ママの魂は変わってしまった。
ママは前と違う人間になっちゃったんだ。
おばあちゃんとは違うんだ。
おばあちゃんはほとんどの事を忘れてしまっても、おじいちゃんを好きな気持ちだけは忘れなかった。
おじいちゃんの事をずっと変わらずに愛し続けてたから魂も変わらなかったんだ。

でも…ママは違う。

僕の事をもう好きじゃないんだ。

だから僕を見捨てた。
もしかしたら昔は僕の事をちゃんと好きだったのかもしれない。
でも今は違う。
僕よりもパパよりも好きな何かが出来たんだ!!!

昔と違うママになっちゃったんだ!!!!!

僕はその場から走り出した。
ママと似た声の女の人が後ろから追いかけてきた。

「待って!あっくん!!」

一瞬、声と一緒に暖かい何かが指の先に触れた。
けれど僕はそれを振り払い、全力で偽物のママに捕まらない様に走った。

悲しかった。
ママが違う人間になってしまった事が。
悔しかった。
ママだと信じていた人に裏切られたことが。
全身が心臓になってしまったみたいに、体のどこもかしこもばくばくと音を立てるのを聞きながら僕は走り続けた。
首元のマントがばさばさと音を立てている。
ほんの数時間前、僕はスーパーマンだった。
本物じゃないかもしれないけれど少なくとも気持ちはそうだった。
だからこのマントは羽に変わった。
僕の心をかろやかに持ち上げて空へ飛ばせてくれる無敵の羽。
僕がママを助けるんだ!
それが出来るのは僕だけだ!
そう信じた無敵の羽は僕の心から絞り出された苦い水を含んで膨れ上がり、今は役立たずの重しに変わってしまった。
こんな羽じゃ重くてもう飛べない。

悲しかった。
悔しかった。
苦しかった。
そして。
恥ずかしかった。

偽のママに会うために必死に走った事じゃなく、親にさえ好きになって貰えない僕自身が。
本物だったママは僕を好きじゃなくなったせいで偽物に変わった。

ぼくのせいでかわってしまった。

僕がママの宝物?
そんなの全然見当違いだ!!!
恥ずかしくて恥ずかしくて消えてしまいたい。
この世界から僕なんて消えてなくなればいい!!

こんな自分を誰にも見られたくなかった。
だから家から漏れる明かりと所々に光る電燈を僕は避けて走り続けた。
今すぐ消えられないならせめて僕を暗闇に隠して。
空に浮かぶ月にすら僕の姿を見られたくなかったんだ。
僕は再び夕暮れの中で走り抜けた森に入って行った。

暗闇の中に逃げ込むために。




はぁはぁはぁ。
静かな森に僕の息だけがこだましていた。
夕方駆け下りた森は今度は上り坂になって僕の足を重くした。
でも苦しさより森の木々と暗闇が僕の姿を隠してくれた事の方がずっと僕をほっとさせた。
1メートル先も見えないこんな暗闇、普段の僕なら怖くて仕方がなかったと思う。
でも今の僕には怖いという気持ちはどこからも湧いてこなかった。
それより夜露で滑りやすい道を、転ばない様に神経を集中させながら登っていく事が救いに思えた。
ただ必死に足を動かしていればママの事を考えずにすんだから。

ただただ、僕はその道を登り続けた。
もう僕の頬に涙は流れていない。
恥ずかしい気持ちもぜいぜいと繰り返す呼吸に追いやられ、少しだけ薄まった。
この山道が終わらなければいい。
ずっと続けば…僕はそのうち力尽きてそのまま消えてしまえるはずだ。

ぷーーーん。
さっきから耳元で癇に障る羽音が大きくなったり小さくなったりしている。
腿の後ろと首元とほっぺがすごくかゆい。
この世界から消えてしまいたいって本気で思っているのに、心とは裏腹に体は小さな痒みを大声で訴えた。

かゆい。
かゆい。

そういえば…。
蚊に刺された所をかきむしって泣いた僕に、ママは優しく薬を塗ってくれた事があったっけ。
刺された場所の上からばんそうこうを張って、その上に凍らせたタオルを置いて僕を膝に乗せながら泣いてる僕を慰めてくれた。
そうされた途端、痒みが魔法みたいに消えたんだ。
ママは凄いって思った。
ママの手にかかれば僕の辛い事は直ぐに消えてしまう。
ママの手はいつでも僕の一番の味方だ。
僕が怖かったり、悲しかったり、辛かったりする時もママと手をつなぐと不思議なくらい落ち着いた。

でも。
そんな優しい手を持ったママは…もうどこにもいない。

せっかく追いやった涙がまたあふれてきた。
なのに間の悪い事に視線の先には幾つもの光がある。
森が終わるんだ。
僕は森を登り切ってしまったんだ。
この先には沢山の光があふれた住宅街がある。

だけど…。
僕はまだここから出たくない!
視線を横に移すと森の出口の脇に小さな長方形の影が見えた。
目を凝らしてそれをよく見ると傍に自転車のシルエットも見える。
影の後ろから漏れている家の明かりのおかげで、それがその家の物置か何かだと分かった。
この森から出たくは無かったけれど虫に刺されたせいで体が痒くて我慢出来ない。
このままここにはいられないと思った。
僕はその家の人に気付かれない様にそぉっとその物置に近づいた。

がたん!

僕の想像した通り長方形の影は庭の端に建てられた物置だったけれど、その扉を引いた途端思ったよりずっと大きな音がして僕の心臓は飛び上がった。
ちらりとその家のガラス戸を見たけれど誰も出てくる様子は無かった。
僕は胸をなで下ろしながら今度は慎重にその引き戸に力を加えた。
そして僕の体が入る位に戸が開くと、そのまま自分の体をそこに押し込んだ。
月明かりさえ入って来ないその場所は森の中よりずっと暗かった。
けれど細く開けたままにした引き戸から差し込んだ家明かりのおかげで僕が横たわる位の空間が残されている事は分かった。

少しだけここで休ませてもらおう。

僕はその場にずるするとしゃがみこんだ。
もう僕の体はくたくただ。
そして僕の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
お腹もすいたし足も痛いしあちこち痒い。
何より心がこれ以上ないくらいに苦しくてみじめだ。

朝起きて、ママに会うために色んな準備をして、一生懸命走り続けて……。
でもそれはこんな思いをする為なんかじゃなかった。
ただ、あの大好きな日曜日がもう一度欲しかったから頑張ったんだ。
僕が生きてきた中で今日が一番って言えるくらいに頑張ったんだ。
……だけど無駄だった。

もしかしたら僕の幸運はあの日に全部使っちゃったのかもしれない。

ふとそう思いついて、そしたら少しだけ気が楽になった。
あの日はとびきりの幸運が重なって出来た特別な日で、特別な日が毎日続くと期待したのがいけなかったんだ。
だって宝くじを買う度に毎回一等が当たるなんて事あるはずないもん。

「きゃはははははは」

僕がそう納得しかけたその時、甲高い笑い声が辺りに響いた。

子供の声だ。
僕は物置の引き戸の隙間からそっと外を見た。
顔を引き戸に近づけるとカレーのいい匂いがする。
この家の今夜の晩御飯はカレーライスだ。

その匂いにつられお腹がぐぅっと大きな音を立てた。
僕は慌ててお腹を押さえた。
家の人に聞かれたら大変だもの。

光があふれるガラス戸の向こうに家の住人が現れた。
僕より小さな男の子がパパに肩車されている。
男の子もパパも本当に楽しそうに笑っていた。
そしてすぐ横にはその姿を嬉しそうに見つめながらお皿を持っているママの姿がある。
それは…。
僕が欲しかった幸せを煮詰めたような光景だった。
僕にとっての宝物のような『特別な日』は他の家では『当たり前』なのかもしれない。

そう想像したらまたあの苦い水で胸が一杯になった。
苦しくて上手く息が出来ない。
苦い水を吐き出そうとしても喉の奥の塊が蓋をしてどうにもならないんだ。

どうして。
他の家の子供には当たり前のものが僕には手に入れられないんだろう。
一体僕の何が悪かったんだろう。
パパとママの期待にどう答えれば良かったんだろう。

おじさんは僕に言った。

『パパとママの愛情を信じ信じてひとつひとつ言葉や行動を選べば、きっと未来はボウズの「大好きな日曜日」を用意して待っていてくれる』
って。

僕はその言葉をどうしても信じたかったから信じた。
自分が『例外の子供』でそんな子にはガラス戸の向こうに入るための鍵は用意されていないって事に気づかずに。
今ならおじさんの話していた女のコの気持ちが心の底から分かるよ。
嫌いになられる前におじさんを嫌いになった女のコの気持ちが。

ママが僕を好きじゃないなら僕もママが好きじゃない。
ううん。
僕がママを好きじゃないからママが僕を好きになれないのは当たり前なんだ。
僕が日曜日に嫌われている理由と同じ様に。

そっか。
僕の中で何かがつながった。
ガラス戸の向こうに入れない子はそう思うしか道はないんだって。





僕は暗闇の中にいた。
手足をばたばたと動かしても何にも触れない。
ふわふわとその暗闇に漂ってると凄く不安な気持ちになった。
何かに捕まりたい。
何かに捕まえてほしい。

こんな暗い場所でただふわふわ漂っているのはとっても怖くて寂しいんだ。
僕が泣き出しそうになったその時、僕の右手をママの手が握りしめてくれた。
僕はその手にとっても安心した。
するとおんなじ位の強さでパパが左手を握りしめてくれた。
僕はもっと安心した。
これでもうひとりぼっちなんかじゃない。
たった一人で暗闇の中を漂わなくて済むんだ!
パパとママに手を離されない様に僕は二人の期待に応えなくっちゃ。
僕の右足を学校の友達が掴んだ。
嬉しいな。
友達は他人なのに僕を好きでいてくれる。
ずっと好きでいてもらえるように頑張らなくちゃ。
僕の左足を学校の先生が掴んだ。
先生は僕の事を認めてくれているんだ。
もっと認めてもらうために今度の運動会のかけっこでは一番にならなくちゃ。
髪の毛を近所の人が掴んだ。
その掴み方は乱暴で少し痛かったけど、もっと優しく掴んでもらえる方法があるはずだ。
そうだ。
僕が幸せな家の子供ならきっともっとちゃんと扱ってくれるはずだ。
僕の家ではパパもママも仲良しで喧嘩なんてしたことが無いって思ってもらえるように笑わなきゃ。
僕を掴んでいた幾つもの手はいつの間にか糸になり、僕は無数の糸に引っ張られた巣の中心にいる小さな蜘蛛になっていた。
心許ないような気持ちはどこかに消えてしまったけれど、代わりにどの糸も僕に沢山の事を要求した。

我慢が出来る事。いいつけを守れる事。明るく楽しい事。優秀である事。問題のないフリが出来る事。

その要求に応えなくちゃ糸を切られちゃう!
そしたらまたあの暗闇の中をひとりぼっちで漂う羽目になる。
それは絶対に嫌なんだ。

頑張らなくちゃ。
頑張らなくちゃ。
そうしなきゃ一体誰が僕を好きになってくれるの?
親にさえホントは好かれてない僕の事を。
だからみんなに好きになって貰う為に頑張らなくちゃ。

………でも。
どんなに頑張っても僕はみんなの期待の全部には応えられなかった。

ぷちん。ぷちん。

糸が一本づつ切れていく。
望むものがもらえないって分かるとみんな僕から手を放していった。
その度に僕の体は激しく揺れて不安な気持ちに飲み込まれた。
だけど不思議とその度に気楽になっていった。

体が軽い。
僕は自由だ!!

でもなんでこんなに体が軽いんだろう?
まるで僕の中には何も入ってないみたいだ。
ああ、そっか。
僕の中にぎゅうぎゅうに詰まっていた『期待に応えようとする気持ち』が全部消えたせいでこんなに軽くなったんだ。
僕の魂のほとんどは誰かの期待に応える事で出来ていたから。
誰かの望みをかなえる事に時間のほとんどを使っていたから。
それを止めたら何もする事がなくなっちゃった!

でもなにもしないで過ごすには一日は長すぎるよ。
一体僕はどうすればいいの?

『自分の望むことをすればいいんだ』

誰かが暗闇の先でそう答えた。

自分の望む事?
だけどいくら考えても何をしたいかが僕にはわからない。
他人の気持ちを優先させる事に慣れすぎて全然思いつかないんだ。
はっきり分かるのはしたくない事だけだ。
僕はこんな暗い場所にひとりぼっちで漂っていたくない。
ここじゃないどこかに行きたい。。
ここじゃない…例えばあの明るい硝子戸の向こうに入って、幸せな家族の一員になりたい。
『明日こそパパとママが喧嘩しませんように』って神様に毎晩お祈りしたり、喧嘩の怒鳴り声で目を覚まさずにすむ様に。
静けさが次の瞬間には嵐に変わってめちゃくちゃになってしまわない様に、僕はいつだってパパとママに細心の注意を払ってた。
ずっと心臓をドキドキさせながら家の中を見張ってた。

そんな緊張感を感じずにすむ幸せな家の子供になりたい。
パパとママに、ただ笑って、甘えて、我儘を言えるそんな家の。

もちろんパパとママを取り換えてほしい訳じゃない。
二人が仲良くしてくれればそれでだけでいいんだ。
喧嘩をしている時間が無くなればその分きっと僕の話も聞いてくれるはずだ。
そしたら僕はパパとママに好かれてるって信じられる気がするんだ。

だけど、僕にはそんな幸せな家に住むための鍵は渡されていない。

『鍵は君の手の中にあるよ』

暗闇の誰かが平坦な声でそう言った。

何を言ってるの?僕はそんなもの持ってないよ。
僕の手には……。
あれ?
僕の手は何かをギュッと握りしめてる。
ドキドキしながら僕はそおっとその掌を開いた。

その掌の中にはぴかぴか光る銀色の鍵があったんだ!

「あった!鍵があったよ!」

僕はあんまり嬉しくてそう叫んだ。
その叫び声は自分で思っていたよりずっと大きくて頭の中にやまびこみたいに反響した。
痛いくらいの大きな音に瞬間的に目をつむった僕は、声が立ち去るのを待ってそっと瞼を開いた。

あれ?
目を開いたはずなのに何にも見えない。
あたりは今ままでの暗闇よりずっと真っ暗で自分の手さえ見えない。
銀色の鍵が僕の掌の上で光を放ってたはずなのに!
僕にはその鍵がどうしても必要なんだ。

掌をじっと見つめているうちに目がなれてきた。
そして目が慣れると同時に今自分がどこにいるのかじわじわと思いだした。

僕は眠っちゃったんだ!
ママに会いに行って、でも僕の望みは何一つ叶えられなくて、その場所から逃げ出して……。
そして今、ひとりぼっちでどこかの家の物置で膝を抱えてる。
そんな悲しい現実がどっと押し寄せてきた。
その大きな波にさらわれそうな僕を、大きなおなかの音が引き留めた。
あんまりお腹が空きすぎてなんだか胃が気持ち悪い。

こんなに悲しくても人間ってお腹だけは空くんだ。

やるせない気持ちになりながら僕はポケットの中を探した。
もしかしたら飴玉か何かが入っているんじゃないかと思って。

あっ!

ズボンのポケットに手をやると何かが指にふれた。
僕は急いでそれを掴かみ目の前で掌を開いた。

それは飴だまなんかじゃなかった。
鈍く光る鍵だった。
掌の上に銀色の鍵がちょこんと乗っている。

なんで!?
だってさっきのはただの夢で、今僕は目が覚めてるはずなのに!
ガラス戸の向こうに入れる魔法の鍵なんて持ってるはずなんかないのに!
それともまだ夢の続きなの?

僕はその鍵をまじまじと見つめた。

そして気付いた。

これはママの部屋の鍵だ。
管理人のおじちゃんに渡されたあの時の鍵だ。

「うっっくっ」

鍵がママの部屋のものだって瞬間に、僕の胸の奥底から抑えきらないほどの悲しい気持ちがあふれてきた。
神様は意地悪だ。
なんであんな夢を僕に見せたの?
これは僕のたった一つの望みをかなえる為の鍵なんかじゃない!
その望みが絶対叶わないって僕に思い知らせるための鍵だ!
この部屋の中に居るのはママだけじゃない。
きっと手を繋いでたおじさんもいるんだ。
そしてそのおじさんは僕が想像してた悪者なんかじゃなくて、ママが僕やパパよりも好きになった誰かなんだ!

こんなもの!
こんなもの!
こんなもの!!!!

僕はその鍵を思い切り叩きつけようとした。
こんな意地悪な鍵は投げ捨ててしまいたかった。

……でも出来なかった。

どうしてか出来なかった。
僕とパパを見捨てたママになんてもう二度と会う気は無かったけれど、これを捨てたら二度と会えない様な気がした。
会う気がないのに会えないのが嫌で捨てられないなんて……。
僕には僕の気持ちが全然分からなかった。
だけど自分の気持ちの正体を今は探る気にはなれなかった。
だから僕は立ち上がった。
家に走って帰るんだ。
息が苦しくなるくらい走っていれば何も考えずにすむんだから。
悲しみに追いつかれない様に逃げ出したかった。
そう、帰る為じゃなく逃げる為に僕は走りたかった。

僕はそっと物置の扉を開けた。
リビングのガラス戸から漏れる光はもう消えていて、代わりに二階の小さな小窓が光っていた。
その小窓からの光を避けて庭を横切ろうとしたその時、頭がひどくくらくらした。
あれ?景色が回ってる。
僕の足はもつれて体がふわりと浮いた。
その後の事はもう何も分からなくなってしまった。



目が覚めた時に見えたのはよく見慣れた天井だった。
ここ…もしかして僕のベット?
だって僕は家に帰る為に物置から出て……でもその後に走った記憶がない。
もしかして最初から全部夢だったの?
僕がママに会いに行ったのも、ママが家に戻らないってきっぱり言ったのも。
もしかしたら……!!
ママが家を出て行ったのも夢なのかもしれない!
なら台所に行けばママがいるはずだ!
僕は急いでベットから降りて二階から階段を駆け下りた。
息を切らせて台所にたどり着くとママの姿を探してあちこちに目をやった。
でもママの姿は無かった。
冷蔵庫にはママの伝言が書かれた紙も貼りついていなかった。

一体どこからが夢なんだろう?
僕は不安になってパパの部屋に向かった。
でもそこにも誰もいなかった。
この家に僕はひとりぼっちだ。
体中がざわざわする。
もしかしたら僕は…ママにだけじゃなくてパパにも見捨てられたの!?
そんな怖い考えが浮かんだその時、がちゃがちゃと玄関の鍵を開ける音が聞こえた。
そして直ぐにパパの姿が見えた。
パパが僕を見た。
パパは持っていたコンビニの袋をばさりと落とすと、そのまま顔を歪ませ僕の方にずかずか歩いてきた。
そして僕を乱暴に抱きしめた。
それがあんまり強い力で僕は体が痛くて仕方がなかったけれど、まるで泣き声のような掠れた声で「ばかやろう、ばかやろう」と繰り返しパパに言われているうちになんだか涙が出てきて何も言えなくなってしまった。




パパにめちゃくちゃに抱きしめられた後、パパは僕が家を出た後の事をぼそぼそと説明してくれた。
僕はあの物置から出た後に倒れてしまったんだって。
そんな僕を家の人が見つけて警察に連絡し、ちょうどパパとママから別々に捜索願いが出ていた僕だと分かったらしい。
僕は朝まで庭で倒れこんでたせいで熱が出て、意識がないまま病院に運ばれた。
だけどその日の昼には熱が下がって目覚めたので(僕は全然覚えてないけど)そのままパパが家に連れてきたんだって。

パパはママから事情を聴いて僕がそんな場所で倒れた理由を知っている様だった。
でも何故かそんな無茶な事をした僕の事を怒らずに『二度とするなよ』と言っただけだった。




僕が家に帰ったその日から何度もママから電話がかかってきた。
でも僕は決してママの電話には出なかった。
そんな事が何度か続くと電話はぴたりと止み、今度は僕宛の手紙が届くようになった。
でも僕がその封筒を開けることは無かった。

だけど…。
あの夜ママの部屋の鍵が捨てられなかった様に、その手紙を捨てる事も出来なかった。
捨てられないのに目の届くところにはおいておきたくない。
この手紙をどうしたらいいんだろう?
どこに隠したら…。

ふいにおじさんから貰った風呂敷の事を思いだした。
あの風呂敷はスーパーマンのマントにはなれなかったけれどおじさんの宝物だった。
宝物を僕に譲ってくれたおじさんの優しい気持ちだけは忘れたくなかった。
だから僕はその風呂敷を僕の大事なおもちゃ箱にしまったんだ。
おじさんはママに出さない手紙をその風呂敷に包んだって言ってた。
だったら僕は読まない手紙をその風呂敷に包めばいい。
ママの手紙を風呂敷に包むといてもたっても居られない様な気持ちがすうっと落ち着いた。
なんでだろう?
おじさんに繋がる物は僕を不思議と落ち着かせてくれる。
ママとの事が整理できなくて涙が止まらない時も、おじさんの言葉を思い出すと何故か涙が止まったんだ。




夏休みが終わる少し前、僕はおじさんとの約束が果たせなかった事が気になって仕方がなくなった。
ママを連れておじさんに会いに行くって約束したけれどそれは絶対にかなわない。
約束は守れないけれど………。
僕はおじさんに会いたかった。
僕の今の気持ちを聞いてほしかった。
だってパパにはこの気持ちは話せない。
パパに僕のママへの気持ちを話したらきっと悲しむもん。
僕はパパだって悲しませたくないんだ。

おじさんは夏が終わるまであの森にいるって言ってた。
夏休みが会終わる前におじさんにもう一度会いに行こう。
僕はおじさんの風呂敷をぎゅっと抱きしめそう決めた。

2013.5.30