「ママ!」

僕はその人影に飛びついた。

会いたかった。
ずっとずっと会いたかった。
会えない位遠い所に言った訳じゃないのも、僕が望めばいつでもママが都合をつけてくれる事は分かってた。
だけど、分かっていた事と恋しい気持ちは別だった。
いつでも望めば会える…でも僕は望まなくてもママが居る日常が欲しかったんだ。
毎日「おはよう」って、「おかえりなさい」って、「おやすみ」って言って欲しかったんだ。
でもわがままを言っても仕方ないって自分に言い聞かせて我慢してた。

どうしても悲しい気持ちになった時は、ママがいつも使ってたハンドクリームを体に塗って布団をかぶった。
そうしてるとママと一緒に寝てるみたいな気がしたから。
目は絶対開けないようにしてそのまま眠くなるのを待った。
僕はちゃんと知ってるんだ。
悲しい気持ちは眠ると薄くなるって事を。

だけど。
何かの拍子に目を開けて本当はそばにママが居ない事を思い知ると、悲しい気持ちが倍になった。
そんな気持ちに心をのっとっられない様に僕はいつも頑張って目をつぶっていた。
大好きな日曜日をもう一度手に入れる日の事を想像しながら目をつぶっていたんだ。

「僕ママに会いに来たんだ!一人でママの所までちゃんと来たんだよ!」

僕はママに抱き着いてそう叫んだ。
けど、その言葉を言い終わるか終らないかのうちに腕の中の感触に違和感みたいなものを感じたんだ。

「坊や、違うわよ。ばぁばよ。ママが帰って来るのは夕方よ」

耳元で聞こえたのはママの声なんかじゃなかった。
僕は驚いて体を離すとたった今まで抱き着いていた人の顔を見つめた。

ママ…じゃない。
見たこともないおばあちゃんだ。

「坊やはほんとに甘えんぼねぇ。
また悲しくなっちゃったの?
仕方がないわね、だったらばぁばのとっておきの美味しいものを分けてあげるわ。」

おばあちゃんはそう言って僕が石畳に置いておいたチョコバーを差し出した。
僕は驚いておばあちゃんの顔を見つめた。そしてぽかんとしてしまった。
おばあちゃんのその口元はチョコでべったり汚れていたから!
なんだか嫌な予感がして石畳の上に置いてあるはずのチョコバーを探した。
残り3本あるはずのチョコバーは、洋服を脱ぎ捨てたみたいなビニール袋の包装に姿を変えていた。

このおばあちゃん、僕のチョコバーを食べちゃったんだ!!

僕は呆気にとられて『僕の』チョコバーを差し出したおばあちゃんの顔を見つめた。
するとおばあちゃんはにっこり笑ってこう言った。

「これはばぁばの『とっておき』なのよ。
これを食べると悲しい気持ちが全部どっかに飛んでっちゃうの。
じぃじもこれが大好きでね、とっても怒ってたくせに直ぐに機嫌を直しちゃった事があるのよ。
きっとじぃじはこれを食べてばぁばに言った事を思い出したのね。」

僕はおばあちゃんの言ってることがさっぱり分からなかった。
ううん、言葉の意味は分かるけどなんで僕に向かってこんな事を言うのかが分からなかった。
僕にも一人おばあちゃんがいるけどおじいちゃんは僕が生まれる前に死んじゃったってママは言ってた。
そしてもちろん僕のお婆ちゃんはこの人じゃない。

「あの…おばあちゃん…そのチョコバーは僕がそこに並べてたやつなんだよ?」

僕は恐る恐るそう言った。
上品で優しそうなおばあちゃんだったけれど、あんまり奇妙な事を言うからちょっと警戒しちゃったんだ。
だけど初めにママと間違って抱き着いちゃったのは僕の方だし…。
もしかして仕返しにからかわれてるんじゃないかな、と疑っちゃう気持ち心のどこかにあったんだ。

「これはね、ばぁばが一人でヤミ市に行って交換してきたの。
あの時は本当にとても心細くて怖かったのよ。
横にじぃじが居てくれたらって何回も思ったわ、昔はじぃじもとっても強くて頼りになったからね。
しかもハンサムでね、今のじぃじからは想像できないでしょう?
坊やにも見せてあげるわじぃじの昔の写真。」

僕は本当にどうしていいか分からなくなってしまった。
おばあちゃんの口ぶりからすると僕を知ってるコと間違えてるみたいだ。
でもいくら薄暗くなってるからってこんなに近くで顔を間違えるかな?
…もしかしたら目が悪くなってるのかなぁ?
田舎のおばあちゃんも「近頃は目がよく見えない」って言ってたし。

おばあちゃんは僕の困惑をよそに、にこにこしながら目の前にぼろぼろの紙切れをさしだした。
大きさは確かに写真くらいだ。
でもその紙切れはひどく痛んでて裏も表も分からない位だった。
もちろんそこに写ってる(?)人の顔なんてまるで分からない。

やっぱりこのおばあちゃんは目が悪いんだ。

「ねぇハンサムでしょう?
焼け残った昔の写真は桐ダンスの上に飾っていたこの一枚だけなの。
だからばぁばはこの写真をとっても大事にしているの」

おばあちゃんはそう言いながら手にした写真らしき紙切れをゆっくり撫でた。
その様子があんまり愛しげだったから、僕にはぼろぼろに見える紙切れがこのおばあちゃんにとっての『宝物』なんだなって分かったんだ。
古びた風呂敷がおじさんにとって宝物だったように、なんてことのない日曜日の思い出が僕にとって忘れられない宝物の様に。
他の誰かから見て何の価値もなかったとしても、その人が心の底から大事にしているものをバカにする様な態度を僕は取りたくなかった。
だから僕はつい言っちゃったんだ。

「おばあちゃん!この写真のひとホントにカッコイイね」

そんな風に少しだけ上ずった声で。
パパにはよく『正直に生きないと罰が当たるぞ』って言われるけど、これ位の嘘なら神様も許してくれるよね?
僕が心の中でそう言い訳していると、おばあちゃんはそんな気持ちを吹き飛ばす様なにっこりした笑顔をむけた。
それから口元をチョコレートだらけにしているその顔で嬉しそうに「そうでしょう?そうでしょう?」と頷いた。
その無邪気な様子に僕はなんだか嬉しくなって、大事なチョコバーを食べられてしまった事がどうでもよくなってしまった。

「ばあさん!」

突然背後から声がした。
振りかえると知らないおじいちゃんがあたふたと僕たちの方に駆け寄ってた。
おじいちゃんはおばあちゃんの手に持っているチョコバーを見つめて、その後にひとつため息をついた。
そして申し訳なさそうに僕に謝った。

「坊や、すまないね。
このチョコレートは坊やのものだろ?
ばあさんは昔から甘いものに目が無くてね…弁償するから勘弁してやってくれ」

おじいちゃんが子供の僕に深々と頭を下げたので僕はすっかり慌ててしまった。
多分、このおじいちゃんがおばあちゃんの言っていた写真の人だ。
おばあちゃんの旦那さんなんだ。
僕は直ぐにそれに気づき別に怒っていないことを伝えようとした。

「いいよ!おじいちゃん!僕もうママの家に着いたから非常用のおやつは必要なくなったんだ!」

僕がそう言うとおじいちゃんは顔を上げ、すまなそうに眉を下げたままこう聞いた。

「…ママの家?もしかして坊やはここのアパートの住人の子供かい?」

「うん、ここの4号室がママの住んでる部屋なんだ。
ママが今出かけてるみたいだからお庭で待ってたんだよ。
でも喉が渇いて公園に水を飲みに行ってる間におばあちゃんが…」

ぐぅぅぅぅっ。

おじいちゃんの質問に答えきらないうちに僕のお腹がびっくりする程大きく鳴った。
『おやつが必要ない』って言った先から自分のお腹が意地汚く鳴った事に、僕は恥ずかしくて顔が熱くなった。
でも、おじいちゃんは下げていた眉を一瞬思いっきり上げ、その直後にからからと勢いよく笑った。

「坊やは腹が減ってるんだな。
それなのにうちのばあさんがおやつを横取りしてしまって本当に申し訳ない!
お詫びにワシの家でお茶とおまんじゅうをごちそうするよ!」

「え…でも、僕はママが帰って来るのを待たなくちゃ…」

おじいちゃんが僕に(僕のお腹に?)気を使ってそう言ってくれたのはちょっと恥ずかしかったけど嬉しかった。
だけどその申し出に頷いちゃったらママに会えるのが遅くなっちゃう。
だっておじいちゃんの家でごちそうになってたらママが帰って来ても分からないもん!
僕は一秒でも早くママに会いたいんだ!
僕がその気持ちを説明するとおじいちゃんは明るい声のままこう言った。

「それは大丈夫さ。
ワシはこのアパートの管理人なんじゃ。
ワシとばぁさんはここに住んでて、部屋は一号室じゃ。
坊やのママが帰って来る時は必ずワシの部屋の前を通るんだから、ドアを少し開けておけばママの帰りを見逃したりはしないじゃろう」

おじいちゃんのその言葉に僕の心はいきなりゆるんだ。
だって!ママには今すぐ会いたいけど、お腹もとっても空いてたんだもん!
それにお腹が空いてる事に気づいたら、この暗い庭でいつ帰って来るか分からないママを一人で待ってる事が凄く心細い事にも気が付いたんだ。
なんでだろう?お腹いっぱいの時は『何でも上手くいく』って思えるのに、お腹がすくと途端に不安が大きくなっちゃうのは。
その答えが僕には分からなかったけど、ママを待つ時間、誰かと一緒に居られる事は願ったり叶ったりだと思った。
だから僕は大声で言った。

「うん!じゃあチョコバーの代わりにおまんじゅうをごちそうして!!
僕、ホント言うとお腹と背中がくっつきそうなんだ!」

僕は思ってた事を正直に口にした。
自分の気持ちに正直なのってやっぱり気持ちいいや!
さっきおばあちゃんの為に嘘をついたのを悪い事とは思ってないし、誰かの気持ちを優先して自分の気持ちを押し込める事に僕は慣れている。
でも本当の気持ちを素直に口に出すことは、視界のひらけた原っぱで思い切り手足を伸ばす様な気分になれるんだとしみじみ思ったんだ。

「じゃあとびきり美味しいおまんじゅうをごちそうさせておくれ。
ばぁさんの好物じゃから毎日必ず近所の和菓子屋に買いに行く名物の品なんじゃ。
それに4号室の奥さんはゴミ出しの日に会うと必ず笑顔で挨拶してくれる。
日の浅い店子じゃがワシはそこがとても気に入ってるんだ。
その奥さんの坊やなら大歓迎だ!」

おじいちゃんはにこにこしながらそう言った。
僕はママをそんな風に良く言ってくれたおじいちゃんがいっぺんに好きになった。
だってそうでしょ?
誰だって自分が大好きな人を褒めてくれる人を悪い人だなんて思えない!

「うん!」

僕が大きく返事をするとおじいちゃんはにっこり頷いた。
そしてチョコバーをかじっているおばあちゃんの元に向かい、ゆっくりとおばあちゃんの手を取った。
その動作はまるで童話の中の王子様みたいで、そのおじいちゃんの手を平にそっと手を置いたおばあちゃんはお姫様の様だった。
なんでかな?
僕はその二人の姿を見ているうちにとても優しいあたたかい気持ちになったんだ。



僕の目の前にはおじいちゃんの言葉どおりにおまんじゅうとお茶が並んでいた。
でも…。
そのおまんじゅうは丸くはなかった。
えっと、なんていうか…ちぎれた所からあんこが恥ずかしそうにはみ出していて……。
簡単に言うとひとつのおまんじゅうを三分の一にしたものだったんだ。

おじいちゃんははじめに二つの大きなおまんじゅうを持ってきた。
その一つを受け取ったおばあちゃんは部屋を出て行き直ぐに戻ってきた。
そしてその時には手に何も持っていなかったんだ。

あんな大きいものこんなに短い間に食べちゃったの!?

正直僕は心配してしまったけれどおじいちゃんは特に驚いた様子をみせなかった。、
おばあちゃんが席に着くとまるで当たり前の様な顔をして「今日は3人だから3等分だよ」と言い一つのおまんじゅうを丁寧に切り分けた。

目の前に置かれたおまんじゅうを見て、僕はなんだかとても申し訳ないような気持ちになってしまい手をつける事が出来なかった。
お腹はとっても空いていたけれど、一つの心配が僕の手を動かせなくしていたんだ。
おじいちゃんとおばあちゃんはもしかしてとっても貧乏なんじゃないかな?
それでもってさっきおばあちゃんが持って行ったおまんじゅうは明日の分か何かで、今日の分はこうやって分けるしかなかったんじゃないかな?
って事は…僕が来たせいで二人の食べる分がいつもより減っちゃったのかもしれない。

そう思ったからおまんじゅうに手が出なかったんだ。
僕がそんな事を考えておまんじゅうを見つめていると横からおばあさんの陽気な声が聞こえた。

「坊や、遠慮しないで食べていいのよ。
このおまんじゅうは甘くてとってもおいしいんだから。
これはね、ばぁばが一人でヤミ市に行って手に入れたのよ」

そう言ったおばあちゃんの顔は少し得意げだった。
『やみいち』って…さっきもおばあちゃんはそう言っていたよね?
もしかしてお店の名前かなんかなのかな?

「ちょっと見た目が悪くて申し訳ないが、こうやって甘いものを食べるのが我が家の習慣なんだ。
味は保障するから早くお食べ。」

おじいさんもそう言って勧めてくれた。

習慣…なんだ。
もしかして僕の心配は見当違いだったのかもしれない。
なんとなく腑に落ちなかったけれど、顔には出さずに目の前のおまんじゅうをえいっと口の中に放り込んだ。

あ、美味しい!

口の中に甘い味が広がって、嬉しい味が喉の奥にするすると吸い込まれていった。
そして目の前のお茶をぐっと飲むとお腹の中がぼわっと暖かくなった。
その温度と一緒に嬉しさが全身に広がる。

なんか疲れが一気に取れたみたい!

走って、働いて、また走って…自分で思っていた以上に僕は疲れてたんだと思う。
そして自然にそんな風に思った事に気がついて小さく笑ってしまった。
だってこういう事、パパが仕事から帰ってビールを飲んだ後によく言うセリフだから。

「気に入ってもらえたようじゃな」

おじいちゃんは僕の顔を見つめながらそう言った。

「うん!美味しかった!」
「そうか、それは良かった。ばあさん、悪いがもう一杯お茶を淹れてくれるかね。
お湯はポットの中にまだあるから」
「ええ、いいですよ」

おばあちゃんが台所に消えるのを見届けると、おじいちゃんも立ち上がった。
そして隣の部屋に行き、さっきのおばあちゃんの様に直ぐに戻ってきた。
手にはもうひとつのおまんじゅうを持って。

「これもお食べ。あんなもんじゃ足りんじゃろ?」

僕は差し出されたおまんじゅうとおじいちゃんの顔を交互に見つめた。

「それ…僕が食べちゃったら明日の分が無くなっちゃうんじゃないの?」

僕がそう言うとおじいちゃんは吹き出した。。

「あっはっは。心配せんでええ!どちらにしろ明日は明日でまた買いに行くんじゃから。
美味しいものを桐ダンスに隠すのはばあさんの癖なだけじゃ。」

「癖?…もしかしてそのおまんじゅうっておばあちゃんのおやつか何かなの?」

「いや、ワシが元気のない時や機嫌が悪い時にばあさんが持って来て、二人で半分に分けて食べるとっておきのまんじゅうじゃ。
言うなれば食べ物の『』へそくり』じゃな」

「……でも明日また『やみいち』ってお店に買いに行くんでしょ?
おまんじゅうをとっておいても固くなっちゃうし、だったらへそくりなんてしないで初めから一個ずつ食べた方がいいと思うんだけど。
なんでそんなややこしい事をするの?」

僕にはおばあちゃんの行動の意味が分からなくておじいさんにそう尋ねた。
けれどおじいちゃんは僕の質問には答えずにこう言った。

「坊や、『ヤミ市』はお店の名前じゃあない。
坊やの生まれるずっと前にあった、そして今はもうそんな存在は誰も思い出しもしない場所じゃ。
とっくの昔に無くなってしまった場所じゃ。」

お店の名前じゃないの?
でも買い物は普通お店でするよね?
それに今はもうない場所からなんでおまんじゅうを買って来られるの!?

僕はすっかり混乱してしまった。
僕のその様子を見ておじいちゃんは少し悲しそうな顔をしながら言葉を続けた。

「ばあさんは少し記憶があやふやになってしまう病気なんじゃ。
昔の事と今の事、自分の家族と他の人間がごっちゃになってしまうことがあってな。
たまにワシの事も思い出せなくなる時がある。
だから少しおかしな事を言ったりやったりしても許してやっておくれ。
ばあさんに悪気はないんじゃ。」

病気…?
そんな風には全然見えなかったけど。
あ、でもだからさっき僕のチョコバーを勝手に食べちゃったのかもしれない。
自分で買ったのか他の人が買ったのか分かんなくなっちゃった…そう考えると筋が通るもん。
きっとおばあちゃんは昔のチョコバーの事を思い出してたんだ。

「つまりおばあちゃんの言った『やみいち』の話は過去の事なんだね?」

「ああ、そうじゃ。
昔、戦争が終わったばかりの時代の話じゃ。」

戦争が終わったばかりの時代。
それってすごくすごく昔の話だ。
そんなに昔の話は僕にはピンとこなかったけど、学校でも、テレビでもその頃の事を言ってる時があるから知っている。
初めてその頃の事をテレビで見た時は色がついていない画面に凄く驚いた。
昔って灰色の世界だったの!?って。
でも本当に世界に色がなかったんじゃなくて、昔の映像がそういうものだったんだってママが教えてくれた。

だけど僕は今でもちょっとだけ疑ってる。
テレビや写真はあるものをそのまま映すんだもん。
灰色の画面なら撮ったものも灰色でなきゃおかしいでしょ?

その事をちゃんと確かめたくて僕はおじいちゃんに聞いてみる事にした。

「その頃って…景色とか…全部灰色だったりしたの?」

「灰色?ああ、確かに灰色じゃったなぁ。
何もかもが焼けて空だけがぽっかり青くてなぁ。
坊やの言うとおり辺りは灰色の景色ばかりじゃったよ」

えっと…。
僕の聞きたかったのはそういう事じゃなくて…。

そう言いかけそうになったけど僕は結局口を噤んだ。
なんだか自分の質問がとってもバカげた恥ずかしいものに思えたから。

そうだよね、空が青いのは昔も今も変わらないはずだもん。
テレビに映った事の方がなんでも『本当』だって思っちゃうのは全然頭を使ってないコみたいでなんかカッコ悪いし。

「その頃は全てが焼けて本当に何もない時代じゃった。
いつもいつも腹を空かせて明日の飯どころか今日の飯にありつく事すらおぼつかないそんな時代だったんじゃ。」

おじいさんは僕の気持ちをよそに昔の事を話し始めた。

だけど僕はちょっと不思議な気がした。
おじいちゃんの顔に浮かんでいたのは昔を思い懐かしむ様な表情じゃなかったから。
なんて言ったらいいんだろう。
辛そうって言うにはぼんやりしていたし、悲しそうと言うには何かが足りない気がしたんだ。
おじいちゃんがどういう気持ちで話しているのか僕には全然分からなかったけれど、少なくともその頃の事が嬉しい記憶じゃないって事だけは分かった。
僕は黙っておじいちゃんの話に耳を傾けた。
その不思議な表情の正体が知りたくて。

「ばあさんが甘いものにやたらこだわるのはそんな時代を生きてきたからなんじゃ。
あの頃に甘いものを口にするなんて夢のまた夢じゃったからな。
手に入る甘いものと言えばさつまいもとかぼちゃ位だったが、それも今の時代に店で売ってる様な美味いもんじゃなかった。
甘いと言ってもせいぜいネギを煮た程度のもんじゃ」

ネギを煮た程度の甘さ?
僕にはそれがちょっと想像が出来なかった。
だってかぼちゃのプリンやサツマイモのタルトは僕の大好物でとっても甘くておいしいんだもん。
それに比べてネギって…。
あんなのが甘いなんて僕思った事一度もない!
ピーマンほどじゃないけどネギも僕はあんまり好きじゃないんだ。

「だがばあさんは甘いものが大好きでなぁ。
子供の頃しる粉や干し柿をどれ程好きだったかをよく話していた。
もちろん芋一つが食事の全てだった時にそんな贅沢な物を食べたいとは口にしなかったが…それを食べたがってるのをワシはちゃんと知っておった」

そっか、だからおばぁちゃんは僕のチョコバーを食べちゃったのかぁ。
さっきはちょっぴり困ってしまったけど、もしかしたらその時の気持ちをおばあちゃんは思い出しちゃったのかもしれない。
そう思ったらチョコバーを食べられてしまいがっかりした気持ちがすぅっとどこかに消えてしまった。
だって僕には甘いものがどうしても食べたくても食べれない、そんな気持ちを味わった事なんて一度もなかったから。

「だがなぁ…」

おじいちゃんはそう言いかけてくすりと笑った。
そして遠くを見つめながら、何かをかみしめるような口調で言葉を続けた。

「甘いものの事で一度だけばぁさんを怒鳴りつけた事があった。
あれは今思い出しても本当に……」

…怒鳴りつけた?
それっておばあちゃんと喧嘩したって事だよね?
でもおじいちゃんの顔は喧嘩の事を思い出している様な顔には見えなかった。
なんとなく楽しかったピクニックの事でも思い出している様な顔に見えたんだ。
だから僕はその疑問をそのまま口にした。

「おばあちゃんが何か悪いことをしたの?
でもおじいちゃんとっても嬉しそうな顔をしてるよ」

僕がそう言うとおじいちゃんはちょっと照れた様に眉を下げた。
そして一度目を瞑ると静かに言葉を続けた。

「配給の食糧ではとても足りんから、市場で物々交換をして食べ物を手に入れるのがその頃の日常だったんじゃ。
それがさっきばぁさんが言っていたヤミ市ってやつなんじゃよ。」

そっか!
やみいちってお店の名前じゃなくて市場の事だったんだ!
市場なら社会科見学で行ったことあるからなんとなく分かる。

「幸いワシの家は一部しか空襲で焼けなかった。
おかげで家にある物を少しづつ食糧に変える事が出来たんじゃ。
物騒な時代だったから大概ワシが食糧の買い出しに出かけていたんじゃが、ある日腹を壊してワシの代わりにばぁさんが買い出しに行ったんじゃ。
ワシは心配しながらばぁさんの帰りを待っていた。
女だから甘く見られて値切られたんじゃないかとか、乱暴者に何かされたんじゃないかとな。
だがばあさんは思ったより早く帰って来て得意げな顔で『ごちそうを手に入れたわよ!』とワシにかぼちゃを一つ差し出したんだ。
ワシはひどく驚いてしまった。
持ち込んだ着物をちゃんと交換すれば米4合にはなるはずだったのに、たかだか一つのかぼちゃと交換したと言うんだから驚くのは当たり前じゃろう?
しかもよく見ればそれは見慣れない形のかぼちゃだった。
ワシがどういうことなのかとばあさんを問い詰めるとばぁさんは市場に着く前に農家の人間から買ったというんじゃ。
ばあさんはにこにことしながらワシに『このかぼちゃは特別なかぼちゃでもの凄く甘いんですって!』と説明しおった。
ワシはばぁさんのその世間知らずっぷりにかっとなって怒鳴ってしまった。
『特別なかぼちゃ!?馬鹿な事を言うな!お前はそいつにまんまとだまされたんだ!』…とな。」

おじいちゃんはそこで一度言葉を切ると、ゆっくりと目を開けて僕を見た。
とっても正直に言うと僕にはおじいちゃんがそんなに怒る気持ちがよく分からなかった。
だけどおばあちゃんが騙された事に対して怒っているのはよく分かったから黙ってうなずいたんだ。

「ワシがそう怒鳴るとみるみる間にばあさんの目に涙が溜まってぽろぽろと泣き出した。
ワシはその姿を見て直ぐに後悔した。
そもそもワシが腹を壊さなければばあさんが買い出しに行くこともなかったんじゃからな。
泣いてるばあさんをなだめると、ワシは気を取り直してそのかぼちゃを蒸かすことにしたんじゃ。
内心『こんなできそこないのかぼちゃの何が特別なかぼちゃだ!』と思い包丁を入れたんだが、確かにその断面は見慣れない色鮮やかなものだった。
それを蒸かすとあたりにぷーんと甘いにおいがたちこめてワシとばぁさんは顔を見合わせた。
そしてそのかぼちゃを一口食べてそれはそれは驚いたんだ。
本当にそのかぼちゃは甘かった!
今まで食べたことが無いほど甘くて栗の様にほくほくしててほっぺが落ちそうな位美味かったんじゃ!」

おじいちゃんのその言い方があんまり美味しそうだったから僕はごくりと唾を飲み込んだ。

「その時のばあさんの顔ったらなかったな。
さっきまであんなに泣いていたのに本当に嬉しそうに笑って『美味しいわね、甘いわね』と何度も繰り返してなぁ。
その顔を見ていたらワシの方も嬉しくなってしまって…あんなに怒っていた気持ちがどこかに消えてしまった。
……今思えばたかだかかぼちゃ一つの粗末な食事だ。
だが一つのかぼちゃを二人で分けて食べて、喜び合うことがあんなに幸せだと思った事はなかったよ。」

深い皺に埋もれた目を細め、照れくさそうにそう言ったおじいちゃんの顔はとても幸せそうだった。

「その時からじゃ。
美味しいものは必ずばあさんと二人で半分に分けて食べる様になったのは。
ワシがあの日の事を鮮明に覚えているように、色んなことを忘れてしまったばあさんの心にも深く刻まれているんじゃろうな。
甘くて美味しいかぼちゃを食べた途端にワシが機嫌を直した事を。
だからワシが元気がなかったり、怒っていたりすると『へそくり』の食べ物をそっと持ってくるんじゃ。」

そっか。
あの変わった習慣はそんな事があったからなんだ。
さっきは奇妙に思えたおばあちゃんの行動に僕は納得がいった。

「おじいちゃんの話を聞いてたら僕もその『特別なかぼちゃ』が欲しくなっちゃった!
ママに食べさせてあげたいんだ!
ねぇどこで売ってるの?僕のおこずかいで買えるかなぁ?」

おじいちゃんの話を聞いてるうちに、僕は物凄くその『特別なかぼちゃ』をママに食べさせてあげたくなっちゃったんだ。
お話の中のおじいちゃんとおばあちゃんの様ににこにこと笑ってママとそれを食べたかったから。

「八百屋に行けばいつでも手に入るさ。」

「え?『特別なかぼちゃ』なのに?」

僕はおじいちゃんの答えに拍子抜けしてしまった。
だっておじいちゃんの話を聞いてる限りじゃ他のかぼちゃと全然違う風だったし!

「昔ワシらが食べていたのは『日本かぼちゃ』と言ってな、煮物には向いていたがあまり甘くないものだったんじゃ。
だけどその時ばあさんが手に入れたのは『栗かぼちゃ』と言って海の向こうからやってきたものじゃ。
蒸かすととても甘いがその頃にはまだ珍しい種類のものだったんじゃよ。
まぁ今ではこっちのかぼちゃが主流だがな」

なんだ。
そうだったんだ。
昔だったからそれは『特別なかぼちゃ』だったんだ。
僕はとてもがっかりしてしまった。
お土産なんかなくともママが僕を歓迎してくれるだろうってもう分かってはいたけれど、それでも無くしたストラップの代わりにママが喜ぶ何かをあげたかったんだ。

「がっかりさせてしまってすまんな。
でもその時のかぼちゃが例え甘くないものだったとしても、やっぱり今でもその時の事を思い出すんじゃないだろうかって思っとるよ。
ヤミ市に一人で行ったばあさんの事が心配で仕方がなくて、帰って来た姿を見て心の底からホッとして。
喧嘩をしてもその後にたった一つのかぼちゃを二人で食べて…。
一人で豪華な食事を食べるよりも大切な人間と食べる食事の方がずっと幸せを感じるもんじゃろう?」

僕は…。
僕はそのおじいちゃんの気持ちがとてもよく分かる気がした。
家族みんなで笑いながらお鍋を食べた夜の事を思い出したから。
特別な物が入ったわけじゃない普通のお鍋。
ママと二人でよく食べた。今はパパと二人でたまに食べる。
だけどパパとママと僕で笑いながらつついたあの夜のお鍋は他のどんな日の食事よりも楽しくて幸せだった。

「うん、そうだね。
おばあちゃんと二人で食べたからそのかぼちゃは『特別なかぼちゃ』になったんだね。」

僕は3人で食べたご飯の事を思い出しながらそう言った。
するとおじいちゃんはにっこりと笑った。

「随分長い話になってしもうたな。喉が渇いたわい。
ばあさんはお茶の事を忘れて台所でまたテレビでも観とるんだろう。」

「………おばあちゃんの病気っていつか治るの?」

おばあちゃんが病気だって事を思い出して、僕はおじいさんに尋ねてみた。
例え元気そうに見えても病気なら治った方がいいに決まってるから。

「いや、治る様なものじゃないんじゃよ。
直ぐに悪くなることもないが少しずつ色んなことを忘れていってしまう病気じゃからな。
もう子供の事も孫の事も忘れてしまって区別がつかん。
きっとそのうちにワシの事も忘れてしまうじゃろう。」

おじいさんは静かにそう言った。

僕は何て言ったらいいのか分からなくなってしまった。
自分のとっても大事な人が自分の事を忘れてしまうなんて僕には耐えられないよ!。
だって大切なパパやママがある日僕の事を忘れてしまったら……。
僕ならきっと寂しくて怖くて泣き出しちゃうと思うから。

「坊や、そんな顔をせんでいいよ。
ワシはもう覚悟が出来とるんじゃからな。
それに今はあんなばあさんじゃが、昔はホントにべっぴんで賢くて、唄なんぞ歌わせると町の誰よりも上手かった自慢の嫁さんだったんじゃよ。
戦争に行って死なずにすんだのはばあさんがいたからじゃ。
ばあさんがいなけりゃ生きて帰るのをあきらめてしまったかもしれん。」

おじいさんはそこで一度言葉を切った。
そして僕から視線を外すと遠い所を見つめ言葉を続けた。

「本当に辛い時代じゃったから何度も死んだ方が楽かもしれんと思ったもんじゃ。
上官に歯を折られるほど殴られた時も、肩撃たれ、ろくな治療も受けられずに高熱で苦しんだ時もそう思った。
子供に食い物を盗まれ、がりがりに痩せたその子を必要以上に殴った時も…自分のした事があまりにも惨めでそう思った。
実際いつ死んだっておかしくなかったんじゃよ。
生きのびる為に細心の注意を払い、最大限の努力をし、それでもなお単なる不運だというだけの理由で命を失った人間を沢山見てきた。
家族や恋人から山ほどのお守りを送られ、それを大事そうに首から下げていた仲間が吹っ飛ぶ瞬間も見たことがある。」

おじいちゃんは何かを吐き出す様にそう言った。
僕はおじいさんの事が少しだけ怖くなった。
ううん…。
ちょっと違うかもしれない。
おじいちゃんの事が、じゃなくておじいちゃんが喋ったその言葉が怖かったんだ。
僕の知らない、僕が想像できないその世界が怖かった。
僕が想像できるのはおじいちゃんがとっても辛かったんだろうという事だけだ。
だけどそのおじいちゃんの気持ちを簡単に「分かる」なんて言っちゃいけない気がした。
僕はおじいさんよりずっと小さい子供だけど、それでも知ってるんだ。
自分が本当に苦しくて辛かった気持ちを、簡単に片づけられてしまうのがどんなにくやしいかって事を。

「それでも…。
ばあさんの顔をもう一度見たくて、その一心だけで生きて帰って来たんじゃ。
ばぁさんがいたからワシは今ここにいる。」

おばあさんの話をした途端、おじいさんの暗かった声ががらりと変わった。
なんだか誇らしげで…さっきより小さな声で喋っているのに僕の耳にはずっとはっきりと届いたんだ。

「だから例え全てを忘れてしまってもワシがばあさんを守ってやるんじゃ。
どんなに変わってしまったとしてもばあさんの魂は元のまま変わらん。
ずっと愛し続けたワシの嫁さんじゃ。」

おじいさんはそう言うとしばらくの間黙った。
そして不意に立ち上がると僕の方を見ずに言った。

「お茶を持ってくるから饅頭をお食べ」

きっと台所へおばあちゃんの様子を見に行ったんだろうな。

居間に一人で残された僕はおじいさんに手渡されたまんじゅうを見つめながらそう思った。
お腹は空いているのに…胸の奥が何かに締め付けられている気がしておまんじゅうを食べる気になれなかった。

この苦しさは喉の奥にあった塊とはちょっと違う何かの様だった。
喉の奥の塊の正体は僕の言葉に出来なかった悲しい気持ちだ。
だけどこれは…。

おばあちゃんの病気が治らない事。
あんなに仲のいいおじいちゃんの事を忘れてしまうかもしれないという事。
どちらも悲しかったけれど、その気持ちの中にぼんやりと、だけど暖かく光る何かがある気がしたんだ。

僕はなんとなくもう片方の手を胸にやった。
そして首元でむすんだマントの端に手が触れる。

おじさんはこの『魔法の風呂敷』のおかげで問題なく生きてこれたって言ってた。
おじさんを想うママの気持ちを大事にして、その相手におじさんが手紙を書き続けたから癇癪を起さずに済んだって。

スーパーマンみたいに強いお兄さんは、小さくて弱い『あいつ』さんを助けてその人の言葉に救われたって言ってた。
『あなたが今生きている事こそが誰かに愛されてきた証拠だ』って言葉に。

おじいちゃんもたった今似たような事を言ったよね。
『ばあさんがいたからワシは今ここにいる。』って。

誰かを大事に想って大切にしようとした気持ちが、結局その人を助けたんだ。

大好きな誰かがいて、
大切な何かを守ることで辛い気持ちに絡め取られずに生きてこれたんだ。
そして幸せになれたんだ。

『与える事は与えられることなんだ』

もしかしたらお兄さんの言った言葉の意味はこういう事なのかもしれない。
あの場では何を言われているのか分からなかったけど、大切な誰かを大事にする事で幸せな気持ちになれるって事だけは感じた。
胸の奥を締め付けた糸をほぐしながらその『感じ』の正体を辿って行って…僕はそんな答えに行きついたんだ。

がたん!

突然台所の方から大きな物音が聞こえた。
僕の心はその音で現実に引き戻された。
そして次の瞬間血相を変えたおじいさんが居間に飛び込んできた。

「どうしたのおじいさん?」
「ばあさんが!ばあさんが倒れとるんじゃ!いくら呼んでもちっとも起きん!」

おじいさんはそう怒鳴ると本棚の上に置いてある電話機に飛びついた。

どういう事?
どういう事?
おばあさんに何があったの!?

混乱した僕の目の前でおじいさんはどこかに電話をかけていた。
声はふるえて顔は真っ青だ。
あ!病院に電話をかけてるんだ!救急車を呼んでるんだ!
僕の心臓はばくばく大きな音をたてた。
まさか!おばあちゃんが死んじゃうの!?

「坊や!ばあさんを見ててくれ!
病院が近いから救急車はすぐ来るがこのアパートは公園に隠れていて分かりにくいんじゃ!
ワシは道に出て救急車を誘導してくる!坊やはばあさんを頼む!何かあったら直ぐにワシに知らせてくれ!!」

「うん!分かった!」

僕は勢いよく立ち上がって台所に向かって走った。

おばあちゃん何処!?

つけっぱなしのテレビに蓋を開けたままの急須。
その急須を乗せたテーブルの下には黒い影があった。

おばあちゃんだ!
おばあちゃんが倒れてる!
僕は急いで駆け寄るとおばあちゃんを抱き起した。

「おばあちゃん!おばあちゃん!起きておばあちゃん!」

死んだりしないで!
おじいちゃんを残して死んじゃうなんて絶対だめだよ!
おじいちゃんはおばあちゃんを守るって決めてるんだ!
おばあちゃんがいるからおじいちゃんは幸せな気持ちでいられるんだ!
おばあちゃんが生きてるだけでそう思えるんだ!

「おばあちゃん起きて!」

後から聞いて知ったんだけど、こんな時には倒れた人を動かしたりしたら駄目なんだって。
多分おじいちゃんは呼びかけただけだったんだろうだけど、僕はそんな事を無視して思いっきりおばあちゃんを揺すっちゃったんだ。
でもそのせいでおばあちゃんの目がぱっちり開いた。
そして僕の心配をよそに呑気な声でこう言った。

「ああ…坊や、お手洗いかい?」

「お、おばあちゃん?」

「ばぁばがいなくとも早く一人で行けるようにならなきゃダメよ」

僕は全身から力が抜けてしまった。
心臓が飛び出しそうなくらいにドキドキして心配したのに、おばあちゃんったら僕を孫か何かと間違えてるみたいなんだもん!

「おばあちゃん!こんな所で寝たらダメだよ!」

僕は怒ってつい大声で叫んでしまった。
けれどおばあちゃんはまるで気にせずに床に転がっていたおまんじゅうに手を伸ばした。
それはさっきおじいちゃんに貰ったおまんじゅうだ。
凄く慌ててたから握りしめたままここに来て、おばあちゃんを抱き起した時放り投げたんだ。

「あら、美味しそうなおまんじゅうねぇ。」

おばあちゃんはそう言うと透明なビニールの包装紙をはがしておまんじゅうにかじりついた。
そして口におまんじゅうを入れたまま喋りはじめた。
どうみても行儀が悪かったけど、あんまりにこにこと憎めない笑顔をしていたので僕は何も言う気がしなくなってしまった。

「このおまんじゅうはね、ヤミ市で交換したのよ。
おじいちゃんがお腹を壊したから代わりに私が一人で行ったの。
そしてかぼちゃに替えたのよ………あら?
替えたのはおまんじゅうじゃなくてかぼちゃだったわ。」

おばあちゃんは突然口を動かすのを止めるとまじまじとその食べかけのおまんじゅうを見つめた。
そして顔を上げると僕に驚いたかのように目を見開いた。

「坊やはどこの子?」

おばあちゃんがなにか変だ!
ほんの一瞬前まで無邪気に笑ってたのに、今はちょっと不安そうな目付きで僕を見ている。
表情のせいなだけじゃない。
なんとなく顔がさっきと違ってる様な気がした。
ど、どうしよう!おじいちゃんに知らせなきゃ!!

「おばあちゃん!ここから動かないで!おじいちゃんを呼んで直ぐに戻って来るから!」

僕はそう言い残しておじいちゃんの元に急いだ。



公園の暗闇を抜けると道路際の電燈下におじいちゃんはいた。
貧乏ゆすりをしながら何度も大通りの方に目をやっている。
息を切らせながら僕はおじいちゃんに向かって叫んだ。

「おじいちゃん!おばあちゃんが変なんだ!!」

僕の叫び声を聞くとおじいちゃんは振り返り、驚くほどの早さで走ってきた。

「どうしたんじゃ!?ばあさんが苦しんでるのか!?」

「違うよ!目を覚ましたの!でもなんか変なんだ!とにかく来て!!」

おじいちゃんは公園の植え込みの中を強引に抜け、僕もその後に続いた。
そして勢いよく玄関を開けた。
何?家の奥から叫び声みたいな声がする。
おばあちゃんが助けを求めてるの?…ううん、違う!これは歌声だ。
つけっぱなしにしていたテレビから聞こえてるんだ。

「ばあさん!ばあさん!」

大声で呼びかけながらおじいちゃんと僕は台所に足をふみれた。
だけどそこにはおばあちゃんの姿はなかった。
その代わりに一人の女の人が立っていた。
背筋をピンと立て、顔を上げ、とても澄んだ声で唄を歌っていた。
歌声の正体はテレビじゃなくてその人のものだったんだ。



金の星 銀の星
海に落ちた星を拾いましょ
船を出して拾いましょ
集めた星をより合わせもやいの網をあみましょか
あなたの漕ぐ船見つけたら
もやい船をつくりましょ
凪の海 嵐の夜 はてなき波を共にこえましょう
永い別れがこようとも
もやいの綱はきれはせぬ
もうひとつの海につくその日まで
いつもあなたと共にある



きれいな、とてもきれいな歌声。
歌詞の意味は全然分からなかったけれど、ゆったりしたメロディはなんだか子守唄の様だった。
最後の歌詞があたりに吸い込まれていくとその女の人は小さく目を瞑った。
そしてふっと目を見開き僕たちの姿に気が付いた。

「あらあなた。そんな顔をしてどうしたの?」

この女の人は………おばあちゃんだ!
歌っている姿はまるで別人の様に見えたけど、確かにあのおばあちゃんの顔だった。
僕はあんまり驚いて声が出なかった。

「お店で歌ってた唄を久しぶりに歌ってみたのよ。
昔みたいにはいかないけれどまだそれなりに声は出るみたいだわ」

「…お、お前。今、『戻って』いるのか?」

おじいちゃんは声を上ずらせながらよく分からない事を言った。
でもそれはおばあちゃんにとっても同じだったみたいで、不思議そうな顔をして軽く首を傾けた。

「何言ってるのあなた。私はずっとあなたの傍にいるでしょう?
ああ…唄なんて歌ってた事に驚いたのね?
おまんじゅうを食べてたらなんだか昔の事を思い出してしまったのよ。
昔、私が一人でヤミ市に出かけた事を覚えてる?」

おばあちゃんは柔らかい笑顔でおじいちゃんに問いかけた。

「ああ、ああ…!もちろんじゃ。忘れっこない。覚えとるよ」

おじいちゃんはかすれた少し震える声でそう答えた。

「あの時お米の代わりにかぼちゃを持って帰ってあなたには随分叱られたわね。
だけどあれはあなたにどうしても食べてもらいたくてそうしたのよ」

おじいちゃんは、おばあちゃんのその言葉に大きく目を見開いた。
そして吸い寄せられるようにおばあちゃんの傍に歩いていった。

「だってあなた前の晩に言ってたでしょう?
『生き残ってお前と一緒に飯を食べれるだけで幸せだ。これで甘いものでもあれば言う事はなんだがなぁ』って。
辛党のあなたがそんな事を言うなんて余程疲れているだろうと思ったの。
だからどうしてもあなたの為にあのかぼちゃが欲しかったのよ。」

おばあちゃんは花の様に笑って傍らのおじいちゃんを見つめた。
おじいちゃんは皺だらけの顔をもっとしわくちゃにしておばあちゃんを見つめ返した。

「そうだったんか。あの時は大声で怒鳴ってしまってすまなかったなぁ。
ずっと謝りたかったんじゃが言いそびれてしまって…本当にすまなかったなぁ」

おじいちゃんは大切な宝物を扱うみたいにそっおっとおばあちゃんを抱きしめた。
おばあちゃんは「いいのよ」と言うとくすくすと笑い、おじいちゃんにされるがままになっていた。

僕は。
僕はその二人の様子を見ていて胸がぎゅうって締め付けられた。
そしてその感じは体全体に広がって、まるで僕が誰かに抱きしめられてるかのように思えたんだ。
大切な誰か。
うん。ママに抱きしめられてるみたいに。

そうやっておじいちゃんはおばあちゃんを黙って抱きしめつづけた。
呑気なおばあちゃんの声聞こえるまで。

「どうしたの?おじいさん。どうしたの?」

そのしゃべり方はさっきの女の人のものじゃなくて、僕のチョコバーで口を汚していたおばあちゃんのものだった。
僕は二人に近寄り、抱きしめられていたおばあちゃんの顔を見上げた。
元に…戻ってる?
おばあちゃんは無邪気な子供の様な顔で笑っていた。
倒れる前とおんな風に。

「お前…お前…」

「おじいさんどうしたの?何か悲しい事があったの?」

「ばあさん、帰って……きたのか?」

おじいちゃんは大きく鼻をすするとおばあちゃんの顔を覗き込んだ。
けれどそれ以上なにも言わずにただおばあちゃんの顔を見つめていた。

「悲しい事があったのね?でも大丈夫よ。ちゃんと『とっておき』があるから元気をだして」

おばあちゃんはおじいちゃんの手を外すときょろきょろと辺りを見回した。
一方僕の方と言えば、目の前で起こったのがどういう事なのか全然分からずにぽかんとしてしまっていた。

「おばあちゃん、どうしちゃったの?一体何がおこったの?」

「……戻って、そして帰って来たんじゃよ」

「え?」

おじいちゃんは少し赤くなった目で僕を見ると、ゆっくりとした優しい声で答えてくれた。

「ばあさんは色んなことを忘れてしまう病気じゃが、時折昔の、健康だったころのばあさんに戻ることがあるんじゃ。
けどな、そういう時間はとっても短くて…ここ一年ほどはそんな事も無くなっておった。
坊やがさっき見たのは昔のばあさんの姿なんじゃよ。」

「そうなの?ホントに全然違う人みたいだった!
唄なんかすごくすごく上手で、僕びっくりしちゃった!!」

おじいちゃんにはそう説明されたけど、僕にはさっきのおばあちゃんと今のおばあちゃんが同じ人間だなんてすぐには信じられなかった。
目の前で見た事なのにそれが魔法か何かの様に思えたんだ。

「そうじゃろ?ワシの嫁さんはとっても歌が上手いんじゃ。
あの唄はワシが一番好きな歌でな、もう一度聴けるだなんて思っとらんかった。」

おじいちゃんはそう言って笑ったけれど、僕はなんだか悲しい気持ちになってしまった。
あんなに上手に唄を歌うお婆ちゃん。
おじいちゃんが大好きで、おじいちゃんの為に一人でかぼちゃを買いに行ったおばあちゃん。
おじいちゃんの言うとおり昔は綺麗で頭のいい女の人だったんだと思う。
今だってかわいいおばあちゃんだとは思うけど、それは僕が僕より小さな子に感じるのと同じかわいさだった。
そう、今のおばあちゃんは子供みたいに見えるんだ。
おじいちゃんに出会う前の、おじいちゃんの事なんか何も知らない子供みたいに。

そんな事を考えているうちに僕は目の奥が熱くなった。
大好きな人が自分と一緒にいた時間を全部忘れて別人みたいになっちゃうなんて。
それをおじいちゃんは見てるしかないなんて……。
それじゃあ、おばあちゃんと一緒に居てもおじいちゃんはひとりぼっちだ。

「どうしたんじゃ坊や!泣いとるのか?」

「だって…おばあちゃんがあんなに変わっちゃってたなんて…もっと変わっちゃうかもしれないなんて…そんなのおじいちゃんが可哀そうだ」

僕は俯いたままそう言った。
おじいちゃんの言うとおり僕は泣いていた。
なんだか今日の僕は泣いてばかりだ。
多分おじさんの前で泣いた時に今までずっと我慢してきた涙の通り道を作ってしまったんだと思う。

ただ、目の奥から染み出してきた涙はおじさんの前で泣き出した涙とは少しだけ違った。
おじさんの前で流した涙は自分の為のものだった。自分の事が可哀そうでその気持ちがお腹の底から勢いよくあふれたんだ。
でも今悲しいのは自分の事じゃない。
おじいちゃんの事が可哀そうで、でもおじいちゃんのおばあちゃんを想う気持ちを応援したくて。
両方の気持ちがぐるぐるとマーブルケーキの模様みたいに入り混じっていた。

「坊やは優しいコじゃな。じゃが心配はせんでいいよ。
さっきも言ったじゃろ?ばあさんがどんなに変わってもばあさんはばあさんじゃ。
一つのかぼちゃを二人で分けて食べた時のままのばあさんじゃ」

おじいちゃんはそう言って僕の頭を優しく撫でた。
僕は下を向いたままごしごしと涙を拭って出来るだけ元気な顔を作った。
そして勢いよく顔を上げて大きく頷いたんだ。
それが、僕がおじいちゃんに出来る精一杯の応援の証だった。

ピーポーピーポー。

家の外から救急車のサイレンの音が聞こえた。

「しまった。救急車を呼んどったんじゃ!」

慌てて外に出ようとするおじいちゃんの袖口をおばあちゃんがぐいと引っ張った。
ん?なんだろう。おばあちゃん手に何か持ってるみたい。
あ、おまんじゅうだ!さっきここでかじっていたやつだ。
おばあちゃんはにこにこ笑っておじいちゃんにそれを差し出した。
そのおまんじゅうはきれいに半分になっていて、ラップに丁寧に包まれている。
かじった痕の残ってない、包丁を使って切り分けたおまんじゅうだった。
それを見た瞬間、僕は気が付いた。
あれはさっきの女の人がおじいちゃんにあげるために切り分けたんだ。
そしてそれを今のおばあちゃんがおじいちゃんに差し出してるんだ。
昔のおばあちゃんと今のおばあちゃんは全然違う様でやっぱり同じ人なんだ!

「おじいさん、これを食べて元気を出して。とっておきの美味しいものをちゃあんと半分残しておいたのよ」

おじいちゃんはおばあちゃんの差し出したおまんじゅうを見つめるとくしゃりと顔を歪めた。
それから泣いてる様な、笑っている様な、判別のつかない顔で僕の方を振り返った。

「言ったとおりじゃろ?ばあさんの魂は元のまま変わらんとな」

その言葉に僕はもう一度大きく頷いた。
そして強く思ったんだ。

『与える事は与えられること』

それはこういう事なんだって。



ざわざわざわ。

救急車の周りを何人かの人が取り囲んでいた。
それは皆おじいちゃんとおばあちゃんの知り合いの様で、一様に心配そうな顔をしていた。
おばあちゃんは元気そうだったけれど倒れた原因が分からないから念のために病院で検査する事になったんだ。
おじいちゃんは担架に乗せられたおばあちゃんに付き添って救急車に乗り込んだ。
そしてドアが閉まる前に僕に向かって声をかけた。

「ワシはばあさんの検査が終わるまで病院に付き添うから、坊やはママの部屋で帰りを待っとるがいい。
本当はいけないんじゃが…特別にママの部屋のカギを渡しておくから」

おじいちゃんは胸のポケットから鍵を取り出して僕に手渡した。
僕がおじいちゃんにお礼を言い終わるか終らないかのうちにドアは閉められ、救急車はサイレンを鳴らしながら走り去った。
そして集まっていた人たちもそれぞれの方向に帰っていき僕もママのアパートに向かおうとした。
手にはママの部屋の鍵がある。
これならもうママとすれ違う事なんてないんだ!
あの部屋で待っていれば必ずママに会えるんだ!!
僕がアパートに向かって歩き出すと背後から聞き覚えのある声が聞こえた。

「今の救急車に乗り込んだ人、うちのアパートの管理人さんに見えたけど見間違いかしら?」

それは…。
ママの声だった。
確かにママの声だった。
僕はドキドキしながら振り返った。そして暗闇の向こうの人影に目を凝らした。
誰かが歩いてくる。でも暗くて顔がよく見えない。
夕方におばあちゃんをママと間違えちゃったから今度は慎重にその人影を見つめた。
ママの声を持つ人影は少しずつ僕に近づいてきて、電燈の下の光の輪の中に足を踏み入れた。
そしてゆっくりその顔を照らし出す。

ママだ!
今度こそ本当のママだ!!!

僕がママに向かって走り出そうとしたその瞬間。
丸い光はママの手もはっきり浮かび上がらせた。

大好きなママの手。
僕はよくママと手を繋いで買い物やお散歩に行った。
ママと手を繋いで歩くのが僕は大好きだった。
だけど。
その手は僕じゃない誰かと繋がれていた。

僕が見た事もない、知らないおじさんと。


2013/02/26