がたんがたんがたん。
僕とお兄さんが乗ったトラックは、今時珍しい舗装されていない道をがたがた揺れながら走り続けた。

「ったく!ガキのくせに女を泣かすなんて10年早いぞ!」

お兄さんはにやにやした笑いを浮かべて横目で僕をちらりと見た。

「ぼ、僕、あの女の人の事いじめたりしてないよ!ホントだよ!
ただ『そうなったらいいな』って思った事を言っただけなんだ!」

僕はお兄さんに向かって必死で言い訳した。
悪い事なんて何もしてないのに言い訳しなくちゃなんないのはちょっと癪だったけど、あの人をいじめたなんて思われる事の方が嫌だったんだ。

そう、
さっきの女の人は僕と話している最中にいきなり泣き出してしまったんだ。
その理由が僕にはさっぱり分からなくてとっても、とっても困ってしまった。

「意地悪な事なんて言ってないのになんで泣かれちゃったんだろう」

僕は途方にくれた気持ちでそうつぶやいた。
するとお兄さんは笑いながらこう言ったんだ。

「ほんっとにお前はあいつによく似てるよ!」

また『あいつ』だ。
僕はお兄さんが度々口にする『あいつ』の正体が知りたくなった。
だって「自分に似てる」なんて言われたら誰だって興味を持つよ。
それにお兄さんがその人の事を口にする時は、何故だか優しい空気が流れるのが不思議だったんだ。

「さっきからお兄さんが言ってる『あいつ』って誰なの?僕凄く気になるんだけど」

僕がそう問いかけるとお兄さんは少しの間沈黙して、それから唐突に喋りはじめた。

「『あいつ』ってのは施設にいた俺より3つ下のガキの事だよ。
俺と違ってかなり年くってから…っていっても10才の時だが…施設に入園した。
こいつがまた物凄くとっぽい奴で、施設に来て早々他の奴に苛められてたんだ。
で、ついうっかり助けたら俺になつきやがった。」

とっぽいいじめられっこって。
そんなコと僕が似てるだなんて…なんか、嬉しくないかもしれない。
僕はそう思ったけれどそれを口には出さずお兄さんの言葉の続きを黙って聞いていた。

「いちいち俺の後をついて回ってきて本当に迷惑だった。
だいたい俺は一匹狼タイプで他の奴とつるむなんて考えたこともなかったからな。
でもいくら追い払ってもめげずについてくるもんだから、仕方なしに舎弟にしてやったんだ」

「しゃてい???」

聞いたことが無い言葉が出てきたので僕はお兄さんに聞き返した。

「俺の子分みたいなもんだよ。
まぁ子分って言っても全然役にたたなかったけどな!喧嘩は弱えぇし、やるこたトロいし」

「……お兄さん、喧嘩強そうだもんね」

僕に似てるっていう『あいつ』さんの事をそんな風に悪く言われたら僕面白くないよ!
だからちょっぴりイヤミのつもりで僕はそう口にした。
でもお兄さんはその言葉を褒め言葉だと思ったみたいで、いきなり機嫌がよくなってしまった。

「お前見る目あるな!お前の言うとおり俺は殴り合いの喧嘩じゃ誰にも負けた事ねぇんだぜ?
何せガキの頃こそ大人に殴られたが中学に入る頃にはかなり体がデカくなってたからな。
しかも強くなる為にスゲー努力して体も鍛えた。
だからその頃には昔俺を殴った大人は俺の顔色を伺う様になってたのさ。」

お兄さんのその言葉に僕はびっくりしてしまった。
でもそれは悪い驚きじゃなくて、スカッとする気持ちのいい驚きだった。
さっきお兄さんが「世の中ってのはそういうもんなんだ」って言いながら昔の辛い話をしていた時に、僕はなんとなくお兄さんがその後もずっと悪い大人に殴られ続けてきたんだろうな、って思ってたんだ。
でも違ったんだ!
…ああ、そっか!
あの時お兄さんの声が怒ってなかったのは、その後悪い大人をちゃんとやっつけたからなんだ!

「お兄さんは悪い大人をやっつけたんだね!凄い!本物のスーパーマンみたいだ!」

僕が嬉しくなってそう言うとお兄さんは、なんだか困ったような、それでいてその事を自慢したいような…そんな不思議な表情を浮かべた。

「俺もずっとボウズみたいに思っていたよ。
別に正義の味方なんてもんにはなる気はなかったが、強くなって俺をぶん殴った奴らを殴り返しててやろうってね。
もし反撃してくる様ならもっと殴ればいい。
『そういうもんなんだ』って気づくまで。
俺はそれを身をもって学んだからな」

お兄さんの気持ちが僕にはなんとなく分かる気がした。
そんな目に遭わされたら僕だってきっと同じことをしたくなるもん!
でも何故か、お兄さんの口調と表情は僕がそこで頷くことよりももっと違うことを求めている気がしたんだ。

「その気持ちをあいつに話したらなんて言ったと思う?」

「………わかんない。
もし僕ならお兄さんが努力して強くなったのはカッコイイと思うけど」

「だろ?だけどあいつはきょとんとした顔で俺に聞いたんだ。
『施設長さんが好きなの?』って。
ちなみに施設長は影で誰よりも俺を殴った卑怯な奴だ」

え?
なんで?
だってお兄さんが小さくて弱かった時に苛めたのはその人でしょ?
なのになんでその人の事を『好き』だなんて思うの!????

「あいつがとっぽい事はよく分かってたつもりだったが、流石にその見当違いな質問にはムカついて俺は怒鳴って否定した。
そしたら今度は前以上にきょとんとした顔で『じゃあなんで「自分が嫌いな人間」になる為にそんなに頑張るの?』って聞くんだ」

え?え?
だって殴られたから殴り返せる人間になる為に頑張ったんだよね?
さっきお腹の大きな女の人に「坊やみたいに元気で優しい子になって欲しいわ」って言われて僕はとっても嬉しかった。
それは僕が目指しているスーパーマンっていう目標をあの女の人が認めてくれたからだ。
僕のなりたいのは悪人をやっつける「正義の味方」だ。
お兄さんは「正義の味方」になりたかった訳じゃなかったのかもしれないけど、「弱い者いじめをする卑怯な大人」になりたい訳じゃない。
なのにそんな見当違いな事を言われたらお兄さんが怒るのも無理ないよ!

「俺は最初あいつの言ってる事がさっぱりわからなかった。
で、何度か問いただしていくうちにどういう意味なのか分かってきたんだ」

「どんな意味だったの?」

「俺は『相手を殴って黙らせよう』っていう汚いやり方が大嫌いだった。
だからそういう目にあわされた人間がどんなに悔しい気持ちになるか相手に分からせてやりたかった。
でも……相手に同じ事をするってのは俺が『俺の大嫌いな汚いやり方をする人間』にならなきゃ出来ない事なんだよ。」

???
なんだかややこしくて分かんなくなっちゃった。
えーと、途中までは分かるんだ。「大嫌いなやり方をされたから腹がたってやりかえそう」って思う所までは。
で、次に「どれだけ腹がたったか分からせる為に同じ事を相手にしてやろう」ってのも、なんとなく分かる。
それで最後は……なんて言ってたっけ?
それをするには「自分が自分の嫌いな人間にならなきゃいけない」だっけ?
…あれ?違ったかな?

いっぱい考えてるうちに僕はすっかり混乱してしまった。
お兄さんはそんな僕の様子を見ながらこらえきれないように笑い始めた。

「あっはっは!お前ガキのくせに真面目だなぁ。俺がお前くらいの年の時にはこんな話されたら3分で逃げ出してたぜ!」

「笑わないでよ!お兄さん!僕今一生懸命『あいつ』さんが何を言おうとしてたのか考えてたんだから!」

僕が怒ってそういうと、お兄さんは笑いを収めて…その代わりに面白がってる様な瞳をして…こう言った。

「つまりさ、あいつはこう言いたかったのさ。
『自分がやられて嫌なことを他人にやるな』って」

なんだそんな事かぁ!
でもそれならよく分かる!
だって僕もパパやママによくそう言われるもん。

「うん!それなら分かるよ!僕だってそう思うもん!」

僕がお兄さんに向かって大声でそういうと、お兄さんはまた笑った。
でも今度の笑い方は楽しそうでも、面白がってる様でもなかった。
ただ口元だけで小さく笑っただけだった。

「ボウズには分かるんだな。でも俺には分かんなかったよ。
そんな言葉はただのきれい事だと思った。
もしそんな事を親の居る奴に言われたなら俺はその場で相手を殴り飛ばしたと思うぜ?
『恵まれた奴に俺の気持ちの何が分かる』って。
……でもあいつは俺と同じ立場のガキだ。それに施設にいるっていうだけでガキの世界じゃ異端だしな。
学校の教科書にひどい落書きをされたり、上履きや体操着を隠されたりしてるのを俺は知ってた。
だから殴ったりはしなかったが、内心はやり返す事ができない『弱虫の理屈』だって思ってた」

お兄さんのその言葉に僕はなんだか自分が責められてる様な気がしてしまった。
僕にはパパとママがちゃんといる。
今はママは離れて暮らしてるけど、僕がそんな目にあったらきっととんできてくれると思う。
それに…僕はクラスで目立つ人気者じゃなかったけれど、仲良しの友達は何人かいたしそんな風にいじめられた経験もなかった。

「だけどあいつは俺の気も知らずにこう続けたんだ。『自分は自分が好きな人間になる』って。
それを聞いて俺はますます呆れたよ。
弱虫の上にナルシストじゃ救いがないからな。
で、半分馬鹿にして『どんな人間になる気だ?』って聞いてみた。
そしたら……」

お兄さんは言いにくそうに口ごもった。
そしてしばらく何も言わなかった。
さっきから何度かお兄さんの言葉はとぎれていたけれど、それは言葉を探す為にそうしているんだって思った。
だけどこの沈黙はそういうのじゃなくて、お兄さんが何かを後悔してる様な様子が見えたんだ。
何か言っちゃまずいことを言っちゃったのかな?
僕は何も気づかなかったんだけど……。
お兄さんに助け船をだすつもりで僕はこう言った。

「『あいつ』さんは『自分がやられて嫌な事をするな』って言う様な人なんでしょ?だったらその逆の『自分がされて嬉しい事をする』人になりたいのかも!」

僕の言葉にお兄さんは目を見開き、大きな掌で僕の頭をぽんぽんと叩いた。
その叩き方は優しいと言うにはちょっと乱暴だった。
多分お兄さん的には好意のつもりだったんだろうと思うけど。
それより僕はお兄さんがハンドルを片手で持っている事にハラハラした。

「ボウズは頭いいな!ホントにそう言ったんだよ!もちろんそのままじゃないがそんな意味の事を」

え?当たってたの!?
いっぱい考えて言った訳じゃなくて思いつきを言っただけなんだけど。

「あいつは俺に助けられたのがよっぽど嬉しかったみたいでよ、『俺みたいな人間になる』って言うんだよ。
…まぁそれを聞いて悪い気はしなかったがあいつには到底無理だとも思った。
あんな弱っちい奴が俺と同じ事が出来るはずねぇからな。」

もしかしたら…。
お兄さんがさっき口ごもってたのは照れてたのかな?
お腹の大きな女の人に同じことを言われて照れくさい気持ちになった僕みたいに。

「で、その後あいつの事をずっと見てたが一向に強くなる気配はなかった。
なんだ口だけか、と思ってたある日ふと気づいたんだよ。
あいつが後をついてまわるようになってから俺は耳の事で喧嘩してねぇって。
以前は相手の事をシカトする気が無くても聞こえずにシカトしてた事が多かった。
その事をイヤミたっぷりに指摘される度に俺は相手をぶん殴ってたんだ。
でもめっきりそういう事が少なくなった。
何故だ?って考えてるうちに思い当たったんだ。あいつは俺と喋る時いつも右側に立っていた。
そして他の奴が俺に話しかける時は左側に立って相手の云う事をでかい声で伝えてくれた。…さっきのボウズみたいにさ」

ああ!
僕はすぐにピンときた。
それが『あいつ』さんなりの人助けの方法だったんだ。
だって僕も同じだもん。
お兄さんに「手伝え」って言われたけど本箱も電子レンジも結局はお兄さんが一人で運んだ。
お兄さんみたいに力の無い僕が無理やり手を出したらかえって邪魔になると思ったから。
だから僕は自分のできる事をしたんだ。
お兄さんに相手の言葉を伝えるって事を。

「その人はお兄さんに助けてもらったのが嬉しかったから、お兄さんをそうやって助けたんだね!
『自分が好きな人間』っていうのはきっと『自分がなりたい自分』の事なんだ!」

僕が明るくそういうとお兄さんは黙って頷いた。

「あいつはなんか…なんかいつでもそういう奴だった。
俺の耳がこうなったのはお袋のせいだ。だけどあいつはそれに対してもこう言いやがった。
『お母さんに愛されてたから今生きてるんだ』って。」

「え?どういう事?」

僕は驚いてそう質問した。
そんな酷い目にあわされたお兄さんにそんな風に言うのはちょっと思いやりがないんじゃないかな?
『あいつ』さんの人助けの方法は好きだと思ったけど、その言葉はちょと無神経だよ。
僕は心の中でそう思ったけれど口には出さなかった。

「その頃には、あいつの言うとっぽい事にはあいつなりに筋があるんだって分かってきてたから腹は立ちゃしなかった。
それより俺がずっと恨んできた両親に対しどんな見かたがあるのかを知りたかった。
で、それを尋ねたらあいつはお腹の中の胎児や生まれたばかりの赤ん坊がどれだけ無力かを語り始めたんだよ。」

うーん。
それって…説明が必要な事なのかな?
誰だって分かるよ。
赤ちゃんがお腹の中に居る時は何もできない。
出来るとしたらせいぜいお腹を蹴る事くらいだと思う。
それでもって生まれたばかりの赤ん坊が出来る事は大声で泣くくらいだ。

「そうやって赤ん坊は自分の命を全部他人にあずけてる。
もし赤ん坊を憎たらしいと思えば世話を止めるだけでいい。
それだけで簡単に死んじまう弱い命なんだから。だけど俺は少なくとも2歳までは生き延びた。
そして今も生きている。
あいつは『あなたが今ここに生きてる事こそが誰かに愛されてきた証拠だ』って言うのさ」

僕はそれを聞いてぽかんとしてしまった。
僕は僕が今ここに生きている事を当たり前だとしか思っていなかったから。
それをそんな風に考えた事は一度もなかった。

「その時はあいつの言葉に納得したりしなかった。
そういう考え方をするめでたい奴もいるんだなって思っただけだ。
だけどあいつの言葉は不思議と嫌じゃなかった。
相変わらず舎弟としちゃあんまり役に立たない奴だったが『こんな奴がこの世に一人くらいいたっていいかもしれねぇな』と思うようになった。
でもあいつの言葉の意味を本当に実感したのはそれから5,6年経ってからだ」

僕はお兄さんの話を聞きながら今まで感じた事の無い様な変な気持ちになっていた。
おじさんが女のコの話をしてくれた時は僕なりに一生懸命女のコの気持ちを想像した。
それはスタートからゴールに向かって女のコの気持ちを追っかけていく様な感じだったんだ。
僕だったら、僕がその女のコだったら…ってそう考えた。
でもお兄さんのしてくれる『あいつ』さんの話はその逆だ。
突拍子もないゴールからどうしてそんな答えになったのか考えてるうちに迷子になっちゃうんだ。

「俺は施設を出てからしばらくすると嫁さんをもらった。
で、早々にガキが出来て初めて知ったんだ。
妊婦がどれだけ大変かって事や生まれたばっかの赤ん坊がどれだけ手がかかるかって事を。
なにせ赤ん坊ってやつは時も場所も関係なく泣きまくる。
それが夜中でも2,3時間ごとに泣いてミルクやおむつの面倒をみてやらなきゃなんねぇ。
あんまり泣き止まないからどっかに捨ててきてやろうと思った事もある位だ。
…なのにさ、そんなに腹が立つのに満足そうな顔をして寝てる時や俺の指をちっちゃい掌でぎゅうっと握りしめている姿を見ると可愛くってとてもそんな事は出来やしなかった。」

僕は自分の考えに気を取られてお兄さんの話を半分聞き流していた。
それにお兄さんも僕に言い聞かせるというよりはまるで独り言のように喋っていたんだ。

「そういう経験をして初めてあいつの言った意味が分かったんだよ。」

その言葉に僕の気持ちはお兄さんへ引き戻された。

「赤ん坊を育てるなんて大変な事は愛してなきゃできやしねぇって。
そして色んな事のタイミングや状態が悪けりゃ俺だってお袋と同じように赤ん坊をぶん投げていたかもしんねぇって。
愛してる気持ちをちゃんと持っていてもさ」

僕はとっても驚いた。
片耳が聞こえなくなる様な目にあってるのに、それをした人の事を庇う様な言い方をした事に。

「お兄さんは赤ちゃんに腹を立ててもそんな事はしてない!でもお兄ちゃんのママはそれをしたんだ!
そう思っちゃった事とホントにそれをする事は全然違うよ!」

僕は強い口調でそう言い返した。
だって!僕はお兄ちゃんの味方をしてるのに、お兄ちゃんがそんな風に言うのって変だよ。
少し裏切られた様な気がしちゃう。
それに僕は僕のママも僕に対してそんな風に思った事があるんじゃないかって考えるのがとっても嫌だった。

「そうだなぁ。思う事と実際やる事は全然違うな。
思うだけなら俺はお袋よりずっと酷い事を何度も考えた事だし」

あ、赤ちゃんを床に投げるよりひどい事!?
そんな事をお兄ちゃんは考えてたの!?
一体どうして!?

僕が怖がってるのがお兄ちゃんに伝わったのか、お兄ちゃんは言い訳をするかのように言葉を続けた。

「酷い事ったって蹴ったり殴ったりって事じゃないぜ?ただたまに…幸せそうな嫁さんと赤ん坊を見てるとすげぇ居心地が悪くなる瞬間があるんだ。
泣くばっかの赤ん坊とその世話でへとへとになってる嫁さんを見てるうちはそんな風には思わなかったんだけどよ。
赤ん坊が言葉を覚え始めて俺にだっこをねだる様になったあたりから酷い事をちょくちょく考える事が多くなった。
抱っこしてやって、可愛がってやってめちゃくちゃ喜んでる子供の顔を見てるとほんの一瞬『俺はこんな風にしてもらえなかった』って気持ちになるんだ。
そしてそのしょうもない気持ちが自分の中にあるのを感じる度に、俺には幸せな家庭が似合わねぇのかもって気がしてくる。
全部放り出して慣れ親しんだ騒がしい世界に逃げ出したいって思うのさ。
……それってお袋よりひでぇだろ?お袋は癇癪を起して俺を放り投げたけど、俺は幸せなのにそんな事を考えてたんだから」

僕は何て言ったらいいのか全然分からなかった。
どう言えばいいのか、じゃなくてお兄さんの云う事がどういうことなのかが分からなかったんだ。
ただ感じたのはお兄さんにそんな事を絶対して欲しくないって事だけだった。

「だけどさ、そう思う度にあいつの言葉を思い出すんだよ。
あいつはいつでも能天気な顔をして『自分の好きな自分になる』って言っていた。
やり返して気を済ませるよりも、されて嬉しい事を優先していつでも妙に幸せそうだった。
幸せな空気の中でイラついてる俺とは正反対だ。
それで俺は考えた。あいつの云うように自分がされて嬉しい事…もう間に合わねぇけど、子供の頃の俺なら親にこんな風にしてもらいたかったって事を子供にしてみようって。」

「それ、してみたの?どうだったの?」

僕は身を乗り出してそう聞いた。
悲しい結末より、幸せな結末を聞きたくて祈る様な気持ちで一杯だった。
お兄さんはゆっくり息を吐くとトラックを止めエンジンを切った。
そして僕に体ごと向き直りこう言った。

「おかしな話だが始めのうちは何て言ったらいいか…自分の血を分けた子供に対してなんだか嫉妬心の様なものを感じてた。
さっき言ったみたいに『俺はこんな事してもらえなかった』って気持ちが先に立ってさ。
でもそれを続けてるうちになんだか嫉妬心より満足感の方が強くなってきた。
俺が愛情を注ぐと子供が幸せそうに笑う。
それを見てるうちにその幸せが自分に伝染してくるんだよな。
そして自分が誰かに幸せを与える事が出来るって事が誇らしくなってきた。」

エンジンを止めた車内はとても静かで、お兄さんの声だけが小さく響いてた。
林を突っ切る細い砂利道には他の車の影は無くて、木漏れ日だけがちらちらと動いている。
それがお兄さんの金色の髪に反射してとってもきれいだった。
初めてお兄さんの顔を見た時はあんなにおっかないって思ったのに、今僕の前で話しているお兄さんの顔はおじさんと同じくらい優しく感じた。

「それでわかったのさ。
与える事は与えられる事なんだって」

え?
なんでそうなるの?

僕にはお兄さんの云った意味がよく分からなかった。
だって何かをあげる事と貰う事は全く逆だもの。
頭ではその言葉が分からなかったけれど、お兄さんの顔を見てたら体の奥から不思議な気持ちが湧き上がってきた。
何故だかそのお兄さんの表情を僕は『知ってる』って思えたんだ。
多分、僕も原っぱでお兄さんと同じような顔をしてたんじゃないかな?
その時鏡を見た訳じゃないから僕の想像なんだけど。

「お兄さんの子供はお兄さんにとってとっても『大事なもの』なんだね。
そんな風に大事にされてお兄さんの子供はとっても幸せだと思う!」

僕にとってパパとママが大事な様に。
パパとママにとってきっと僕が大事な様に。
そんな風に思えた事で僕はとっても幸せな気持ちになった。
だからきっとそのコも僕と同じ気持ちのはずだ。

僕がそう言うとお兄さんの顔が一瞬だけ歪んだ。
そしてその後びっくりする程大きな声で、からかうようにこう言った。

「ボウズは将来絶対に女ったらしになるな!さっきのお客さんがなんで泣いたか分かるか?
ボウズの言葉が嬉しかったから泣いたのさ!
大人になると悲しいからじゃなくて嬉しくなっても泣くもんだからな!」

お兄さんはいきなり話を変え、トラックの外まで響き渡る様な大声でそう言ったので僕は面食らってしまった。
なんでここであの女の人の話が出てくるんだろう????
まぁ僕があの人をいじめた訳じゃないってお兄さんが分かってくれてるみたいなのは良かったけど。

「こんなに喋ったのは久しぶりだな。
俺は普段かなり無口なほうなんだぜ?お前はあいつと似た所が多いもんだからつい喋りすぎちまった。
でもこんな所で油売ってちゃ今日のノルマ果たせなくなっちまうな。」

がたん!
トラックが大きな音を立てていきなり走り出した。
さっきまで僕の方を向いていたお兄さんの体はすっかりシートに収まっていて、まるでそれまでの僕との会話なんて無かったかのように軽快にハンドルを握っていた。

「夕方までにボウズのママの居る所に着きたいんだろ?少し飛ばしていくからお客さんを見落とさないように協力しろよ!」

「うん!!」

トラックは緑のトンネルの中をそのまま走り続けた。