おじさんの姿がすっかり見えなくなってからも僕はしばらく窓の外を見つめていた。 おじさんと一緒にいた時間はほんのちょっぴりなのに、おじさんと出会う前と出会った後じゃ色んな事がまるで変ってしまったかの様に思えたんだ。 家を飛び出した時は不安で不安で仕方がなかった。 ママに会いに行くんだっていう強い気持ちはあったけれど、「たどり着けるのかな」とか「ママは僕が来たこと喜んでくれるかな?」という答えの分からない不安な気持ちが僕の心の色をくすませていたんだ。 でも今はそのうちの一つの不安は消えてしまった。 そしてもう一つの不安もさっきこの車に乗り込んだ瞬間に随分和らいだ気がする。 こんな風に思えるようになったのはおじさんのおかげなんだと思った。 神様はストラップを僕の腕の中に戻してくれる事はなかったけれど、その代わりにおじさんに会わせてくれたんじゃないかな。 おじさんは真っ暗な夜の中に灯った電燈みたいに僕の気持ちを安心させてくれたんだ。 僕はぎゅうっと拳を握りしめて「ママを連れてもう一度おじさんに会いに行くんだ」と強く心に決めた。 「おいボウズ、いい加減窓から離れろ。そのおかしな布がばさばさとうるさくて仕方がねぇ」 突然不良のお兄さんに声をかけられ僕は身を固くした。 だってその声の調子がとびきり不機嫌そうだったんだもん。 僕は次の瞬間ばね仕掛けの人形の様に勢いよく首をひっこめ窓を閉めた。 そしてこっそりお兄さんの顔を盗み見る。 お兄さんはこちらをじろりと睨むと、不機嫌そうな声のまま僕に質問を投げてきた。 「そんな汚たねぇ風呂敷を首に巻いてなんのつもりだ」 睨んだ視線の先にはおじさんのくれた風呂敷があった。 さっき首に巻いた時はきらきら光る真っ赤なスーパーマンのマントに見えたのに、今はお兄さんの言葉の通り古びた風呂敷に姿を変えていた。 僕は突然自分が恥ずかしくなった。 それはさっきの怖気づいた恥ずかしさとは違う、いたずらが見つかり気まり悪い様な単純な恥ずかしさだったんだ。 でも…。 僕はそのマントを外そうとは思わなかった。 このマントはおじさんの宝物で、ママを助ける勇気を奮い起こす為に必要な大切な物だから。 他の誰かがみっともない、って笑ったとしても僕にとって大切な物なら僕がそれを恥ずかしく思ったりしちゃダメだ。 ちょっと前の僕なら他の人がどう思うかを気にして直ぐにこのマントを外してしまったと思う。 遠足の時、みんなの前でおにぎりとジュースだけのお弁当を食べれなかった様に。 人にどう思われるかが一番重要な事だったから。 でも今の僕にはそんな事より自分の気持ちの方が大切に思えた。 「これは僕の大事な宝物なんだ。だから無くさないようにこうしてるんだ」 僕はそうお兄さんに向かって答えた。 するとお兄さんは更に不機嫌そうな声で僕に向かってこう言った。 「男ならもっとでかい声で喋れ!聞こえねぇよ!」 そんなに小さな声で喋ったつもりは無かったんだけど…。 エンジンの音で聞こえなかったのかな? それとも不良の人だから言いがかりをつけて僕にげんこつをくらわせようとしてるのかな? 僕はちょっぴりどきどきしながら、今度はお腹に力を入れて同じ言葉を繰り返した。 「ふーん、お前の宝物か。じゃあしょうがねぇな。とにかく今度何か言う時はそうやって腹に力を入れて云え! 俺は左耳が聞こえねぇんだ。蚊の鳴くような声でぼそぼそ言われても俺には通じねぇからな」 お兄さんはそう言って僕を見た。 そして僕もまともにお兄さんの目を見た。 その目は意外な程優しくて僕はとってもほっとした。 さっきまで乱暴な恐竜を相手にして喋っている様な気がしていたから。 そう言えばおじさんも言ってたっけ、見た目はとっつきにくいけど気がいい人だって。 それに左耳が聞こえないんじゃ助手席の僕の声が聞き取りにくいのは当たり前だもん。 もしかしたら怒鳴り声に似た不機嫌そうな声はその事と何か関係あるのかもしれない。 僕の事を「やっかいな子供を引き受けてしまった」と怒っている訳じゃなくて。 そう思ったら僕の心は随分軽くなった。 そしてその気持ちが僕の口からお兄さんへの疑問を押し出した。 「耳…どうしたの?僕大きな声で喋る様にするけど右の耳に聞こえるような大きさがどれくらいなのかよく分からないんだ」 「その位の声なら十分聞こえる。…この耳はなぁ喧嘩でやっちまったんだ」 喧嘩!! 耳が聞こえなくなるくらいの喧嘩って…きっと殴り合いとか何かだよね? やっぱりパパの言うとおり不良の人は怖い喧嘩をするんだ! 僕はそれがどんな喧嘩なのか知りたいと思ったけれど口を噤んだ。 変な事を聞いたら狼のしっぽをふんずけちゃうかもしれないもん! 「お前何て顔してんだよ」 お兄さんは横目で僕の顔を見ながらそう言った。 え?僕そんな変な顔してたかな? おっかながってるのばれちゃってるのかな? 「さっきっからビビってるみてえだが、俺は女と子供には手ぇあげたりしねぇから気を楽にしろよ。 それに喧嘩ったってこの耳は俺がした喧嘩のせいでこうなったわけじゃねぇ。 赤ん坊の頃、おやじと喧嘩したお袋が癇癪を起して俺をに床に叩きつけたせいで鼓膜が破れたんだ」 ……ゆ、床に叩きつけた??? ママが赤ちゃんを!? お兄さんはこともなげに言ったけれど僕はあんまりびっくりして言ってる意味がよく呑み込めなかった。 なんで? なんでママが子供に、しかも赤ちゃんにそんな事をするの?? そんなの絶対におかしいし、そんなお母さんが居るなんて僕には信じられない! 「ママがそんな事するはずないよ!それは絶対間違いだよ! だってお兄さんってその時は赤ん坊で何も覚えてないんでしょ? 大きくなってから誰かにそう聞いたんでしょ?きっとその誰かがお兄さんに嘘を教えたんだよ! ママが子供にそんなことするなって絶対にあるはずないもん!!! だってママはみんな子供の事を大好きなはずだもん!!!」 僕は拳を固く握りしめながら大声でそう言った。 うん、大声でそう言わなければならなかったんだ。 お兄さんの為に。 そして多分僕自身の為に。 「…お前のおふくろはきっと優しい人なんだろうな。」 「え?」 お兄さんにそう言われて僕はとっさになんて言っていいのか分からず口ごもった。 「…お前の云う通り耳の話は後から施設長に聞いたんだが、別に奴が嘘を教えたとは思ってねぇよ。 何せうちの親父とお袋は『子供を育てる資格がない』ってレッテルを張られた人間だしな。 おかげで俺は2歳の時から中学を卒業するまでずっと施設暮らしする羽目になっちまった」 「し…せつ??」 「ああ…ボウズには分からないか。 あちこちにあるんだよ。親に捨てられたり引き離されたりした子供が暮らす施設が。 一昔前風に孤児院って言えば分かりやすいのかね」 こじいん…なんか聞いたことがある。 あ!そうだ!ケーブルテレビで再放送してるアニメの中で使ってた言葉だ。 『こじいん』では沢山の子供たちが同じ場所で一緒に暮らしてたっけ。 そのアニメの中ではご飯もお風呂も寝るのもみんなと一緒で、時々大人をぎゃふんと言わせる様ないたずらを子供たちがするんだ。 それがとても愉快そうで僕はちょっぴりそんな場所暮らしてみたいと思った。 パパとママと一緒に居られないのは可哀そうだと思ったけど、同じ強さで家に帰る時間を気にせずに友達とずっと遊んでいられたら楽しいだろうなって気がしたから。 だから僕は気持ちをそのまま口にした。 「孤児院ってずっと友達と一緒にいられる場所でしょ?楽しそうだよね! ねぇ、お兄さんは友達と一緒に何かいたずらしたりした?」 僕は出来るだけ明るい口調でそう尋ねたんだ。 さっきお兄さんがした「ママが赤ちゃんを床に叩きつけた」っていう話が引きずっていた薄暗い空気を追っ払うつもりで。 でもその空気はどこにも行ってくれなかった。それどころかぐんっと重みを増して僕の体にまとわりついたんだ。 だってお兄さんがとっても暗い瞳で僕をじろりと睨み、その瞳以上に暗い声で僕にこう言ったから。 「いたずら?ああ随分したぜ。ただし一人でな。 いたずらがばれる度に周りの大人に殺されるかと思う位殴られるんだから友達を信じるなんて馬鹿な真似はしやしねぇよ。」 お兄さんのその言葉はくちゃくちゃにからまった糸玉みたいになって僕の耳の中に転がり込んで来た。 そして僕の頭の中を嫌な感じに飛び跳ねた。 だって! だって僕の知ってるアニメでは主人公がいたずらを成功させるとそれに協力した友達はみんな大喜びしたし、大人も怒りながらも最後は必ず許してくれた。 死ぬかと思うくらい殴られるなんて結末は見たことないよ! 「同じ様ないたずらをしてもさ、親の居る奴はたいして怒られやしないのさ。 でも施設の子供は違う。親がいないってだけでやつらの10倍は説教される。 何かあればそれが俺たちのした事じゃなくても濡れ衣を着せられて殴られる。 親の居ない子供は殴って憂さを晴らす相手としてはちょうどいいんだろうよ。 何せ抗議したり守ってくれる大人がいないんだからやりたい放題できるしな」 お兄さんは吐き捨てる様にそう言うとぐいっとアクセルを踏んだ。 そのせいで僕の背中は勢いよく座席に叩きつけられ、喉元まで出かかった言葉が粉々に砕けてしまった。 僕がその言葉を繋ぎ合わせようともたもたしているとお兄さんはさっきと同じ口調で続きを話し始めた。 「まぁでも世の中ってのはそういうもんなんだろうな。弱いものは餌食にされる。 それは動物の世界でも一緒だろ?肉食獣ってのは弱った奴や子供を一番に狙うもんな。 だからそういうもんだと思えば納得できる。だだ…」 お兄さんは一度そこで言葉を切った。 そして苦々しい表情を浮かべて言葉を続けた。 「動物と違って人間の笑えるところはそれ平気でを正当化するってトコだろうな」 「…せいとうか?」 「それが良い事だって周りに思わせる事さ」 良い事!? 誰かを殴って憂さを晴らすことが!? そんなのどう言ったって良いことになんてならないよ! 幼稚園の先生も、小学校の先生も「弱い者いじめはしちゃいけません」ってみんなに教えてるもん! 「お兄さんは間違ってるよ!悪い大人はいるかもしれないけどそんな大人ばっかじゃないよ!! それがおかしいって思う人はいっぱいいるよ!!」 僕は興奮して大声を出してしまった。 お兄さんは一瞬驚いた顔をして僕を見たけれど、直ぐに少し優しい目になった。 僕はその反応に少し戸惑った。 なんとなく怒鳴り返されるだろうな、って思ってたから。 「お前はあいつに何となく似てるよ」 あいつ? あいつって誰だろう? 僕がそう聞き返す前にお兄さんは再び喋りはじめた。 「大人にとって都合の悪い子供は施設の外に出さないって暗黙のルールがあるのさ。 俺は他の奴らみたいに理由もなく殴られたら黙ってたりしてなかったからな。 何せお前ぐらいの年の時、施設の大人にやられた事を交番まで訴えに行った事もあるんだぜ。 そんなガキは大人にとっちゃ都合の悪い事この上なかったんだろうよ」 「で、でも!おまわりさんなら『良い大人』だからなんとかなったんだよね?」 なんとかなって欲しかった。 だからとっても『うん』って言って欲しかった。 今のお兄さんはおっきくてちょっぴりおっかないけど、お兄さんだって僕と同じ位の子供だった事があるんだ。 勇気を出して知らない大人の人に話に行ったんだから良い結果になって欲しかった。 「まぁ悪い大人じゃなかったよ。俺の話をちゃんと親身に聞いてくれたし。 腹空かした俺に自腹で弁当までごちそうしてくれたんだからな。 …でも結局は施設の奴らの言葉に丸め込まれて役には立たなかった。 施設内だけでの問題児が外の世界でも問題児として扱われるようになったのはあの兄ちゃんの人が良かったせいだからな。 そうやって張られた『問題児』ってレッテルは正当化の為のいい道具になった」 「道具?」 「つまり気晴らしに殴られても『そうされてるのはあの子供が悪さをしたせいだ』皆が思うようになったって訳さ」 ひどい! そんなのあんまりだ!!! 「そんなの間違ってる!!お兄さんじゃなくて、周り大人が間違ってるんだ!」 僕は腹が立って腹が立って、あんまり興奮したので涙声になってしまった。 「馬鹿な奴だな、他人の事なんだから泣くこたぁねぇだろ。 それに何度も言ってるだろ?世の中ってやつはそういうもんなんだって。 弱い奴から順に食い物にされる。 だから強い人間になんなきゃなんねぇんだよ」 不思議と。 不思議とお兄さんの声はもう怒ってはいなかった。 僕にはその理由がちっとも分からなかった。 お兄さんの云う様にそれは僕の事じゃない他人の話だったけれど、それでもこんなに腹がたつのに…。 なんでそんな目にあったお兄さん本人がそんなに落ち着いていられるんだろう。 「ねぇ、お兄さんはなんで…」 「おっ!客発見!ボウズ、お前も仕事を手伝え!」 僕の質問はお兄さんのその言葉で中断されてしまった。 お兄さんの視線の方向に目をやるとお腹の大きな女の人が空の本箱の横で大きく手を振っていた。 「腹ボテか。こりゃ親切にしてやんねぇとあいつに怒られるな」 お兄さんはそうつぶやいて、とても嬉しそうに笑った。 その笑顔はさっき僕に向けた瞳とは比べものにならない位に優しさしいあたたかさが滲んでいた。 そして僕の心に湧いた怒りの涙はその優しい温度を感じた途端にすうっとどこかに消えてしまった。 なんでだろう? おじさんと居る時もそう思ったけれど、不安や悲しさや怒りは優しい気持ちの前ではなんだかくじけてしまう。 くじける…なんて言い方はちょっと変なのかもしれないけど、心の内側に生えた鋭い棘がゆっくりと溶けて小さくなっていく様な気がするんだ。 説明するのが難しいそんな思いに沈みこんでいると女の人の明るい声が聞こえた。 「この本棚お願いできますか?」 「はい、喜んで」 いつの間にかトラックは女の人の横に止まっていた。 そしてお兄さんがせかせかと車から降り始め空の本箱を運び始めた。 そうだ、手伝えって言われたっけ! 僕もお兄さんに習い急いで車から降りたけど何を手伝えばいいのか分からなくて困ってしまった。 だってお兄さんは軽々とその本箱を運んでいたし、僕がお手伝いできることなんて何もない気がしたんだ。 「あと台所に古い電子レンジがあるんですけど、重くてここまで運べなくて」 女の人がお兄さんにそう声をかけた。 でもお兄さんはその言葉が聞こえてないかのようになんの返事もせずに女の人の前を素通りした。 あ! もしかしてホントに聞こえてないのかもしれない! 僕は不意にそう思いついた。 だってお兄さんは左耳が聞こえないんだし、女の人はお兄さんの聞こえない耳の側に立っていたから。 …よし!僕の出番だ! 「お姉さんがね!台所にある電子レンジを運んでほしいって言ってるよ!」 僕は出来るだけ大きな、はっきりした声でお兄さんにそう叫んだ。 お兄さんは一瞬僕を見て、その後唇の端を少しだけ上げて笑った。 そして女の人に向かい「分かりました」と勢いよく返事をした。 「坊や、お手伝い偉いわね。」 顔を上げると女の人がにっこり笑ってそう言った。 「その首に巻いてあるマントはスーパーマンか何かなのかな?」 そう質問されて僕はマントの存在を思い出した。 一瞬だけ恥ずかしい気持ちになったけれど、僕はそれを振り払い大きく頷いた。 「そうだよ!僕は困ってる人を助ける正義の味方のスーパーマンなんだ!」 本当はママを悪い奴から助けたいだけだけど、ちょっぴり見栄を張って僕はそう答えた。 すると女の人は大きなおなかをゆっくりさすり、その手で僕の頭を優しく撫でた。 「偉いわね。わたしの赤ちゃんも坊やみたいに元気で優しい子になって欲しいわ」 そんな風に言われたのは生まれて初めての経験だった。 だって僕はまだ7歳だし『○○みたいな大人になれるといいわね』と言われた事は何度もあるけど、その○○の中に自分が入っていた事なんて一度もなかったから。 くすぐったいようなふわふわするような…。 そんな見慣れない感情はなぜだか僕を得意な気分にさせた。 そしてその気持ちは僕の頭の中で考えた言葉より先に口から飛び出した。 「きっとなるよ!ママの事が大好きな、元気で優しい子に!」 僕はその場でそう言い切った。 |