おじさんは僕のその言葉を聞くとにっこり笑って僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。
僕はそれがとても嬉しかった。
遠慮のない、でも親しげなその掌の感触は僕の答えを「正解」だって言ってくれている様な気がしたんだ。

「ボウズ、随分長い話に付き合わせてしまったけれど、ママの居る町はどこなんだ?
夕方までに着ける場所なのか?」

僕はママの居る駅の名前を答えた。
するとおじさんはちょっと難しい顔をした後にいきなり手を打った。

「そうだ!廃品回収のボウズが居たな!」

ボウズ?それって僕の事?
でもはいひんかいしゅうってなんの事だろう?

その言葉の意味が分からずにどう返事をしようかと迷っているとおじさんが明るい声で説明してくれた。

「おじさんの友達に廃品回収…ほら、よく家で要らなくなったテレビやパソコンを回収する為に回っている自動車があるだろう?
あの仕事をしているんだ。
今日はまだこの道を通っていないからもうそろそろ来るはずだ。
あのボウズは○○駅のあたりまで毎日回っているからその車に乗せて行ってもらうといい。
ママの居る駅までは一つ足りないがボウズが走って行くよりは確実に夕方までは着くからな」

「ホント!?おじさんありがとう!」

僕はおじさんの申し出に飛び上がって喜んだ。
自分一人で行ける自信はあったけど、暗くなる前にママの所に着けるかどうかは不安だったんだ。

「いいんだよボウズ。
お礼を言いたいのはおじさんの方なんだから。
おじさんの心にずっと引っかかっていた小さな棘をボウズは抜いてくれたんだ。
だからおじさんはどうしてもボウズをママに会わせてやりたいんだ。
ママにボウズの今の気持ちを話してほしいんだ」

「うん!僕全部話すよ!
ママへの気持ちも、パパへの気持ちも、パパとママが仲良くしてくれる事をどんなに望んでるかって事も!」

僕はもう大丈夫。
もう怖くないんだ。
お土産を持っていかなくたってママは僕を抱きしめて迎えてくれる。
そう信じられるから僕はもう何も怖くないんだ。

「そうだな、ボウズの今の顔でそれを言えばちゃんと気持ちは伝わるよ。
後はママがボウズが着く頃に仕事から帰っているといいんだけどな。
ボウズのママはなんの仕事をしているんだ?」

おじさんのその質問に僕はきょとんとしてしまった。
さっきみたいにおじさんの言葉の意味が分からないからじゃなくて、ママが仕事をしてるっておじさんが決めつけている事に。
ママはパートで働いていたけれど家を出た時に辞めてしまった。
だってママが今住んでいるマンションは元の仕事先からはずいぶん遠くなっちゃったから。
それに電話でもママは新しい仕事先の事を話したことなんて無い。

「おじさん!心配しなくても大丈夫だよ。
ママは今は働いてないもん。
前にやってたパートは辞めちゃったんだ。
僕がいつ電話してもママはおうちに居るもん!」

ママのいるマンションまで行けば全部上手くいくんだ。
ママは僕を迎えてくれるためにちゃんと待っててくれるはずだから。

僕は得意げにそう言っておじさんの顔を見上げた。
おじさんの心配は必要ないって事を分かって欲しくて。

でも、
見上げた先にあったおじさんの顔は僕の想像と違ってた。

すごく、すごく悲しそうな目をしてたんだ。
僕が女のコの悪口を言った時よりずっと悲しそうな目。

僕はなんだかとても不安な気持ちになった。
なんで?
なんでそんな目をしているの?

「どうしたのおじさん?」

僕はさわさわした気持ちを吐き出すようにそう尋ねた。
けれどおじさんは直ぐには答えてくれずに、僕から目をそらした。

さわさわさわ

僕の心の中にある不安の音が少しずつ大きくなっていく。
おじさんはどうしちゃったんだろう?
ママがお仕事をしてない事が一体なんだっていうんだろう?

「…なぁボウズ。もし………」

おじさんは重い口を開き何か言いかけて止めた。
そして直ぐに奇妙な程優しい声で僕にこう言った。

「ボウズにおじさんの宝物をあげよう。
長い間ずうっと大切にしていたおじさんのたった一つの宝物だ。
受け取ってくれるかい?」

おじさんのその言葉に正直僕は戸惑った。

宝物?なんでいきなりそんな事を言うの?なんでそんな大切なものを僕にくれるなんて言うの?

幾つもの疑問が喉の奥から出かかったけれど、僕はそれをごくりと飲み込んだ。
おじさんの声の中に潜んでいる奇妙な優しさが僕にそうさせたんだ。
おじさんの優しさに嘘の匂いは感じられないのに、悲しそうな目と対になったその声にはほんの少しだけ「違うもの」が混じっている気がしたから。
その「違うもの」の正体を知るのが僕は怖かったんだ。

「うん、おじさんの宝物なら欲しい!」

僕はわざと大声でそう言った。
僕の中に湧き上がった不安を覆い隠す為に。
おじさんは僕のその返事を聞くと大きく頷き、足早にテントの中に戻っていった。
そしてすぐに何かを持って現れ、手にしていたそれを僕の目の前で広げた。

ばさり。

おじさんが僕に見せたのは古びた布きれだった。

なんだろうこれ?
こんな布切れがおじさんの宝物なの???
僕は不思議に思いその布切れがなんなのかおじさんに尋ねた。

「これは何?」

「風呂敷だよ。魔法の風呂敷だ」

魔法の風呂敷?それってなんだろう?
僕が真っ先に思いついたのは絵本に出てきた「空飛ぶ絨毯」だった。
でも、でもそんなものが本当にあるはずないし…僕はちょっぴり戸惑いながらおじさんにその意味を尋ねた。

「魔法って…アニメに出てくる様なやつ?もしかして空を飛んだり変身とか出来るの?」

僕がそう言うとするとおじさんは大声でからからと笑った。

「そうか、ボウズにとっての『魔法』はそういうものか。ボウズをがっかりさせて悪いけれどおじさんの言う『魔法』はそういうものじゃないんだ。」

「………?じゃあどういうものなの?」

おじさんは僕の質問に少しだけ考えてから静かな声でこう言った。

「不器用なおじさんがなんとかこの世界で生きてこれたのはこの風呂敷があったからなんだよ。
…だからこの風呂敷はおじさんにとっての『魔法の風呂敷』なんだ」

僕はおじさんの言っている意味がちっとも分からなかった。
なんで風呂敷なんかのおかげで生きてこれたの?もしかして手品みたいにそこから何か出てくるのかな?
ご飯とか、お薬とか、お金とか……うーん。
まるでなぞなぞみたいなおじさんの答えにぼくはすっかり混乱してしまった。
僕のそんな様子をおかしそうに見つめていたおじさんは、穏やかで、だけどとても明るい声で続きを話し始めた。

「この風呂敷はね、おじさんが上京した時おじさんのおふくろが持たせてくれたんだよ。 
おじさんが東京に来たのは15歳の春で本当に何も知らないひよっこだった。
おふくろはそんなおじさんの事をそれはそれは心配してね。
『大切なものはこの風呂敷に入れて絶対体から離したらあかんよ』と何度もおじさんに言い聞かせたんだ。
でも、正直おじさんは新しい生活が楽しみだったし、心配されるようなへまをするつもりもなかったからおふくろの言葉が少しばっかりうっとうしかった。
それでも親孝行のつもりでその言葉に従って…結局とても感謝することになったんだ。
東京駅でおじさんは悪い奴に荷物を盗まれてしまってね。
でもこの風呂敷に入れておいたお金と地図と紹介状は無事だったんだ。
おかげで大事には至らずに就職先の工場にたどり着いたんだよ。」

やっぱりママの云う事を聞いて良かったんだね。
でも…それのどこが『魔法』なんだろう?
『ラッキーな風呂敷』って言うんなら僕にも分かるけど。

そう思ったけど僕は口を挟まずにやりすごした。
おじさんは明るい声のまま話を続けた。

「おじさんはその時思ったんだ。
おふくろがおじさんを守ってくれたんだって。
そしてその時以来、この風呂敷がおじさんと故郷のおふくろを繋ぐ特別なものに思えるようになったんだ。」

声の調子のせいなのかな?なんだかおじさんの顔がちょっぴり若く見える。

「…初めて他人の中でする仕事は色々辛いことも多かった。
おじさんは口下手でなかなか友達も出来なかったしね。
だけどそんな事は口には出さなかった。
そして口に出さない代わりにおふくろに手紙を書いたんだ。
こんな事があって悔しかった、悲しかった、腹が立ったって…誰にも言えない気持ちを正直に。
だけどその手紙はおふくろには出さなかった。
いつでもおふくろに出す手紙はどんなにおじさんが東京でどんなに上手くやっているか、と言う自慢話ばかりだったよ。
本当に辛い気持ちを書いた手紙はこの風呂敷の中に包んでそっと押し入れの中にずっと隠していた。
本当の気持ちを伝えたいって思いもあったけれど、そんなことをしたらあの心配性のおふくろがどれだけ心を痛めるか見当がついたからね。
言葉はきつい人だったけれど本当はとても優しい、子煩悩な母親だったんだ。
…だから、そうした。
それでよかった。
心の中ではおふくろの風呂敷がおじさんの全部を気持ちを受け止めていてくれたから。」

なんだか。
なんだか僕にはその時のおじさんの気持ちが自分の事みたいによく分かった。
本当の気持ちを言いたいのに言わない、それは僕がいつもしていた事だから。

「年を取るごとにおふくろ宛の『出さない手紙』は少なくなっていったけれど、それでも時折我慢が出来ずに手紙を書いた。
おふくろが病気で亡くなったその後も。
おふくろはずっと変わらずにおじさんの気持ちを受け止めてくれて、そのおかげでおじさんは問題を起こさずに生きてこれたんだ。
おじさんはこう見えても癇癪持ちで子供のころはしょっちゅう周りとぶつかっていたからね。
その調子でやっていたらおじさんは多分誰かを傷つけてこんな風に穏やかに暮らしていけなかったと思うんだよ。
だから、この風呂敷はおじさんにとって『魔法の風呂敷』なんだ。
ボウズが期待する様に空を飛んだり変身したりは出来ないけどね。」

おじさんはいたずらっぽく笑ってそう言った。
その笑顔を見て僕の胸の奥にぽちゃんと何かが落ちた気がしたんだ。
それがなんなのかは分かんなかったけれど、でもそれは全然嫌な感じのものじゃなかった。
おじさんの思い出話はとっても昔の事のはずなのに、僕のすぐ傍に立っている時間みたいに思えて不思議とくすぐったいような
気持ちになったんだ。

でも…。

僕は思った。

でもそんな大切な、おじさんが生きていくのにとっても大事にしている宝物を僕が貰っていいの?
だってそれを貰っちゃったらおじさんはもうママにお手紙が書けなくなっちゃうでしょ?

「おじさん、僕貰えないよ。
それを僕が貰っちゃったらおじさんの『誰にも言えない気持ち』はどこにも行く場所がなくなっちゃうもん!
そしてたらおじさんは苦しくなっちゃうもん!」

僕の喉の奥に出来る塊みたいなものが大きく膨らんで、きっとおじさんの事を苦しめる。
僕にはそんな事できないよ!

「いいんだよボウズ。
おじさんはね、この暮らしを始めてから『誰にも言えない気持ち』は全部消えてしまったんだ。
沢山書いたおふくろへの手紙もアパートを出た時に全部燃やしてしまったしね。
おじさんはそういう気持ちをおふくろに背負ってもらうのはもうやめたんだよ。
それに…おじさんはおふくろの年をとっくに追い越してしまった。
なのにまだ上手くやれないなんてちょっぴり恥ずかしいだろ?」

おじさんはその古びた風呂敷を優しく撫でながら話を続けた。

「でもボウズはまだまだ小さいからね。
言えない気持ちも沢山あるだろう?
もしママにも言えない気持ちが出来た時、おじさん宛に手紙を書くといい。」

僕はおじさんのその優しい気持ちが嬉しかった。
でも…
でもほんのちょっぴりだけ余計な心配だとも思ったんだ。
だって僕はもう気が付いたんだもん!
僕はママの『大事なもの』かもしれなくて、もしそうなら僕がママにどんな気持ちを話してもママは嫌わない。
だったら大好きなママに言えない事なんてあるはずないもん。

だけどおじさんは僕が思っても見ないことを口にした。

「ママのアパートに着いて、ママがもし誰か他の人と暮らしてたとしても…ボウズは男の子なんだから泣かない様に頑張るんだ。
ママにボウズの気持ちを全部話して、それでも足りない様ならおじさんの『魔法の風呂敷』がボウズの気持ちを受け止めてあげるから」

おじさんは心配そうに僕の顔を覗き込みながらそう言った。
けれど僕はおじさんの浮かべた表情の意味がよく分からなくて背骨の奥の方がむずむずしたんだ。

ママが誰かと暮らしてる?
だってパパは僕と暮らしているんだよ。
そして僕はママと離ればなれだ。
だったらママは誰と暮らすっていうの?
だって喧嘩をすることは多いけどパパとママは結婚しているし、子供は僕しかいないんだよ?

おじさんのそのおかしな心配の言葉で僕の胸の中は黒いもやもやでいっぱいになってしまった。
それが僕を苦しくさせる事はなかったけれど、体中をうっすらひっかかれている様なおかしな気持ちで胸をいっぱいにした。

「おじさんの心配はとってもおかしいよ。
僕とパパが離れて暮らしているのに一体誰とママは一緒に居るっていうの?
お友達?それとも…」

僕は思いついた言葉を最後までは言えなかった。
もし、
もしママにパパより好きな男の人が出来たとしたら…パパじゃない男の人と暮らしていたとしたら…。
おじさんはもしかしてそれを心配していたのかもしれない。
さっきっからおじさんの声の中に混じっている奇妙な優しさはその事を隠す為なのかもしれない。

そこまで考えると僕の中にあるあたたかくて柔らかい何かが急に固くてごろんとしたものに形を変えた。
それは喉の塊よりずっと重い何かで、お腹の奥の方でずんっと大きくなる音が聞こえたんだ。

「ごめんなボウズ。
これはおじさんの考えすぎなのかもしれない。
ただ、もしそういう事があったとしてもおじさんはボウズの味方だからどんな気持でも受け止めるよ…って事が言いたかっただけなんだ」

おじさんは僕が好きなんだ。
僕がおじさんを好きな様に。
だからどんな時でも僕の味方だって言って僕を励ましてくれてるんだ。

僕にはおじさんの気持ちがよく分かった。
だって逆の立場だったら僕もおじさんにそう言って元気になって欲しいと思うだろうから。

だけど…。
だけどおじさんが今言った想像がもし当たってたとしたら?
ママには僕やパパより好きな人がいて、僕といるよりずっと楽しいと思う男の人がいて…だから僕とパパをママが捨てたとしたら?
そう、あの女のコのママみたいに、僕の誕生日を忘れるくらいその男の人が好きだとしたら?
僕じゃダメだから、パパじゃダメだから。
ママを幸せにするのに何かが足りないから。

ママはいなくなったの?

ううん!違う!
そんなはずない!ママは僕が絶対好きだ!僕がママを幸せにするんだ!僕の知らない男の人なんかじゃなくて!!!!
そうでなきゃ…そうでなきゃ僕の望みは一生かなわない。
僕とママとパパが揃ってなきゃあの大好きな日曜日は二度と僕のものにはならない!
僕がどんなに一生懸命走っても。
僕がどんなに素敵なお土産をママにあげたとしても。
僕がどんなに誰よりもママが好きだとしても。

僕の願いはかなわない。

黒いもやもやは突然鋭い何かに変身して僕の心にぐさりと突き刺さった。
それはすごく痛くて、実際には無いはずの何かで確かに胸の奥がきりきりと痛んだ。

そしてその痛みは心の奥から『氷砂糖の下敷き』の風景を掘り返してきたんだ。

『氷砂糖の下敷き』…それは冬になると玄関わきに出来る薄氷の事で、僕はこっそりそう呼んでいた。
僕んちの玄関わきのコンクリートの地面はほんの少しだけ窪んでよく雨水が溜まってた。
水が溜まるといっても1センチ程度で、面積も20センチ位の大きさだったのでパパもママもたいして気にしていなかった。
僕も普段は目もくれないんだけれど、冬になって氷が張ると必ずその薄氷の上を勢いよくふんずけたんだ。
そうすると氷にヒビが入ってなんだか氷砂糖みたいに見えるのが楽しかったから。
学校の池に張る氷をそんな風に踏んだら氷が割れて水の中に落ちてしまうと思うけど、小さな水たまりの下敷き位の厚さの氷なら
そんな心配はないもん。
そしてその遊びは冬の朝の僕の小さな楽しみのうちの一つだったんだ。

だけどある朝からその「遊び」は僕の「おまじない」に変わっちゃったんだ。

その日もいつもの様に勢いよく「氷砂糖の下敷き」をふんずけた。
でもなんでかその日は氷にヒビが入らなくて僕はムキになって何度もその上で飛び跳ねた。
だけど氷は割れなかった。
そのうちママの呼ぶ声がして僕はご飯を食べにしぶしぶ家の中に戻ったんだ。

その日のご飯はいつもより豪華。
だってその日は日曜日だったんだもん。
きっとまたいつもの喧嘩が始まるんだろうな、と僕は覚悟していたけれど…その日パパとママはちょっとした言い合いをしただけで
怒鳴りあいの喧嘩にはならなかった。

僕はその時なんとなくこう思ったんだ。
「氷砂糖の下敷き」をふんずけてヒビが入らない日はパパとママの喧嘩が無い日だって!
どうしてかそう思っちゃったんだ。

それから僕の朝の楽しみはほんのちょっぴり形が変わった。

ヒビが入る日は喧嘩をする、ヒビが入らない日は喧嘩をしない。
靴を投げて天気を占うみたいな気持ちで「氷砂糖の下敷き」を踏むようになったんだ。

氷が割れるのを見るのは僕の楽しみ。
霜柱の上を歩くみたいな僕の楽しみ。

なのにパパとママには喧嘩をして欲しくないから僕は毎日そうっと氷を踏む様になった。
そしてそれはいつの間にか占いじゃなくて、僕の中でおまじないになったんだ。
パパとママに喧嘩をさせないためのおまじない。

氷が割れるのを見るのは僕の楽しみ。
霜柱の上を歩くみたいな僕の楽しみ。
だけど僕の小さな楽しみは僕の中から消えてしまった。
だってその日以来僕は氷を踏んでヒビを入れる事はなくなっちゃったから。

だけど氷にヒビを入れななってもパパとママは喧嘩をしたし、そのおまじないにはなんの効果もないって僕はすぐに気が付いた。

それでも…。

それでも僕は氷をそおっと踏み続けてたんだ。

その気持ちは今僕が感じてるものと凄く似ている気がした。
どんなに強く願っても、その願いをかなえる為にどんなに僕が頑張っても…結果は変わらない。

ママのお家について、ママがドアを開けてくれて、ママが僕をぎゅうっと抱きしめてくれて。
でも、
ドアの向こうに知らない男の人が居たとしたら…僕はその中に入れない。
だってその中に僕が入って、ママの為にその人とお喋りしたりしたとしたらパパを裏切る事になっちゃうもん。
僕はママが好きなのとおんなじ位パパも好きなんだ。

もしそんな事になったとしたら…僕はどうすればいいんだろう。

多分僕は長い間黙り込んでいたんだと思う。
おじさんが心配そうな声で僕に話しかけるまで、僕の心はここじゃないどこかにいたんだ。

「おじさんのくだらない想像でボウズを不安にさせて悪かったな。おじさんは大人だからつい考えすぎてしまうんだ。
でもおじさんの考えが当たるとは限らないんだ。…いや、そんな想像が当たる可能性の方がずっと低いかもしれない。
だからさっきも言った様にボウズはママに対して自分の感じてることを素直に言えばいいんだ。
それで全てが解決するかもしれないんだから」

おじさんは優しい声で、そしてびっくりするほど必死な瞳で僕の顔をのぞきこみながらそう言った。
おじさんの瞳にはしょんぼりと暗い顔をした僕の顔が映っていた。
それは…。
それは「僕の大好きな日曜日」に裏切られた時の僕の顔だった。
今日もまた、僕の欲しいものが手に入れられなくて、僕の幸せな記憶は本当は作り物なんじゃないかって疑っている時の顔だ。

僕が一番欲しいものを僕が一番信じていないの?
そんなんじゃ僕の望みが叶うはずなんかないよ!
僕は雷に打たれた様にそう思った。
僕が信じなきゃどんなに一生懸命頑張っても欲しいものが手に入るなんて事はきっとないんだ。

僕は、僕だけは信じなきゃ。
僕の望む日曜日を。
僕が望む幸せを。

ママが僕とパパの事をホントは大好きだって事を!

もしおじさんの想像した様に、扉の向こうに知らない男の人が居たとしたら?
その理由は絶対に僕やパパよりその人が好きだからじゃない!
うん、そんなはずない!
きっと、きっと、きっと…………。

うん!そうだ!!!!
きっとそいつは悪い奴なんだ!
悪い奴が僕とパパから引き離すためにママをそそのかしたんだ!
そうやってママを閉じ込めて僕を苦しめようとしてるんだ!

可哀そうな、ママ。
きっとひとりぼっちで辛くて悲しいはずだ。
僕が助けてあげなきゃママはずっと帰って来れない。
だったら僕が頑張らなきゃ!

ママを助けるためになら僕はなんだって出来る!
そうさ、大嫌いなピーマン10コ丸ごと食べるのも、熱いお風呂に肩まで浸かって100まで数えるのもへっちゃらだ!!
ううん、そんな事よりもっと大変なことだって絶対出来る!
だって僕はママの事が大好きなんだもん!!
だってママは僕の事を大好きかもしれないんだもん!!

ママを悪者から助けるためになら僕はスーパーマンにだってなれる!!!

そう決心した瞬間、僕の手に握られていたおじさんの風呂敷がむずむずと動き出した。

むずむずむずむず、ぐいぐいぐいぐい。

突然、おじさんの思い出の詰まった「魔法の風呂敷」が、パン!と弾けて真っ赤なマントに変身した。
まるでスーパーマンのかっこいいマントみたいに!

そっか!
そうだ!!!

おじさんのくれた風呂敷はママに言えない言葉を包むものなんかじゃないんだ。
だって僕はママに自分の気持ちを全部正直に言う、って決めたんだもの。
だからおじさんが使ったみたいな使い方を僕がする必要はないんだ。

僕はこの「魔法の風呂敷」を「スーパーマンのマント」として使えばいいんだ!
ママを悪者から助ける為に!

僕は手の中のぴかぴか光るマントをばさっと広げて、そのまま首に巻きつけた。
そして首の前でギュッと縛る。
これで僕はスーパーマンだ!
ママを助けるためにならなんだって出来る無敵のスーパーマン!

僕はポップコーンがはじけるみたいな勢いでその場でジャンプした。
うん、そうだ!
僕はポップコーンみたいな強くて元気なスーパーマンになったんだ!

ぱんぱんぱん。

僕は強くて誰にも負けないポップコーン。
大きくはないかもしれないけれど、ちっちゃいからって馬鹿にしたら痛い目にあうぞ!
僕は知ってるんだ。
フライパンからはじけ飛んだポップコーンがどれだけ元気がよくて熱いかって事を。
それが体に当たるととっても痛いって事を。

僕はスーパーマンみたいな勢いで飛ぶポップコーン。
そしてママを閉じ込めてる悪い奴の脛を思い切り蹴ってやるんだ!
僕がママを助けるんだ!

首元でしめた『魔法の風呂敷』は僕の中で『スーパーマンのマント』に名前を変えた。

「心配しなくても大丈夫だよおじさん!」

僕はそう言いながらばさりとマントを翻した。
こうすると本当のスーパーマンみたいだ!
そう思うとお腹のそこからむくむくと自信が湧き上がってきたんだ。

「ママは絶対僕の事を待っててくれるだろうし、もし僕とママが会うのを邪魔する奴が居たら僕がやっつけてみせるから!」

僕は大きな声でそう言った。
今まで出したことの無い様な声で。
それは今までで一番の大声って訳じゃなくて…ええと、なっていったらいいのかな。
泣いたり怒ったりした時に出る喉をからすような声とは違う、歌を気持ちよく歌ってる時に出るような声。
まるでお腹の奥から生まれた自信が声になってせり出てきた様な声。

「そうだ!そうだなボウズの言うとおりだ!」

全開の笑顔でおじさんは笑うと大きな掌で僕の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。

「さっき坂道で泣きべそかいてたボウズと、今のボウズは全然違う男の子みたいだ!
きっとボウズの望みは叶う!おじさんはそう信じてるよ!」

「ありがとう!おじさん!!」

僕はおじさんに勢いよく抱きついた。
おじさんの言葉が本当に本当に嬉しかったから。
自分の信じてる夢を誰かがおんなじ様に信じてくれる事。
それがこんなに嬉しい気持ちになるなんて!

僕は思い切りおじさんを抱きしめ、その間おじさんはずっと僕の肩を優しくさすってくれたんだ。

ばさばさ。

強い風に僕のマントがたなびいた。
その風と一緒に小さなスピーカー音が聞こえてきた。

「ボウズ、車がきたぞ!」
「車?」
「廃品回収の車だ。送ってもらえるようにおじさんが話をつけてくるからちょっとここで待っておくれ。」

おじさんはそういうと静かに僕の体を引きはがし、ゆっくりと近づいてくるトラックに向かって走りだした。
僕はほんのちょっぴり取り残された様な気持ちになったけれど、それでもおじさんの言いつけどうりにその場で静かに待っていた。

知らない人なのに僕の事を乗せてくれるかな?
あ、でも知らない人って意味ならおじさんだって2時間位前は知らない人だったんだ。
…2時間?
僕は時計を持ってないから本当はどれくらい時間がたったのかは分からなかったけど、お日様の位置を見てなんとなくそう思った。
随分時間を使っちゃった!
もしこれで「はいひんかいしゅうの人」が車に乗せてくれなかったら夕方までママの所に着けないかもしれない。
そう思ったら僕は少しだけどきどきした。

「話はついたぞボウズ!送ってくれるそうだ!」

不安になりかけた気持ちをおじさんの呼び声が中断させた。
僕はほっとして急いでおじさんの元へ駈け出した。

「このボウズだ。事情はさっき言った通りで○○駅まで頼みたいんだ」

おじさんは僕の肩を抱き寄せてトラックの運転手さんに声をかけた。

「ああ…分かったよ」

運転席から聞こえたのは低くて無愛想な声。
でも顔は見えない。

僕はその声の主の顔を見ようと背伸びをした。
するとおじさんがひょいと僕を持ち上げ僕とその人を対面させてくれた。

ふ、不良だぁぁぁぁぁ!

運転席にいた男の人は僕がなんとなく想像していた人と全然違っていた。
おじさんの友達みたいな口ぶりだったから、もっと年を取った人かと思ったら全然若い!
大人の人の年ってよく分からないけど、僕の担任の先生(「しんそつ」だってママは言ってた)と同じ位だと思う。
年は同じくらいなのかもしれないけど髪の毛の色は全然違った。
黄色に近い茶色!
こういう色の髪の毛をしている人は「不良」だって前にパパが言ってたんだ。
そして不良って多分怖い人の事なんだ。
だってコンビニでパパとご飯を買う時、不良の人にレジで横入りされたのにパパは文句言わなかったもん。
それで後から僕にこっそり僕に教えてくれたんだ。
「ああいう人間はいきなり殴ったりするから近寄っちゃダメだぞ」って。
どうしよう!
僕そんな怖い人の車に乗っていくの!?

すっかり怖気づいてしまった僕の事を不良のお兄さんはじろりと睨みつけると低い声で命令した。

「事情はおっさんから聞いた。さっさと乗れ。もたもたするようなら置いてくぞ」

まるで怒ってる様な口ぶり。
…というより本当に怒ってるのかもしれない。
余計なお荷物の僕を車に乗せていくのが気に入らなくて。
もしかしたらおじさんが居なくなった途端に、お父さんが言ってたみたいに殴られちゃうかも!

そんな想像をしている僕をおじさんはゆっくり下して、そのまま顔を覗き込んだ。

「このボウズは見た目はちょっととっつきにくいが気のいい奴だ。安心してママの所まで乗っけてってもらえ」

おじさんは例の猫のお化けみたいな表情で僕に笑いかけた。
おじさんを信用しないわけじゃないけど…ううん、信用してるけど僕はやっぱりちょっと怖かった。
おじさんも一緒に来てくれればいいのに…。
カッコ悪いから口には出さなかったけど、僕の手は勝手におじさんの洋服のすそをぎゅっと握りしめた。
するとおじさんは少しだけ目を細めゆっくり僕の背中を前に押し出した。

「これはボウズの旅だ。ママに会いに行くためのボウズの旅だ。だからおじさんがついていってやる訳にはいかないよ。」

その声は優しく暖かかったけれど、僕の口に出さなかった気持ちをきっぱりと拒んでいた。
魔法の様に僕の気持ちを見抜いたおじさんの言葉を聞いて僕は顔が熱くなるのを感じた。
すごく、恥ずかしくなったんだ。
ママに会いに行くために僕は一人で家を出発した。
ママを僕の手で助ける為に僕はスーパーマンになるって決心したんだ。
なのに不良のお兄さんにひとにらみされただけで怖気つくなんて、僕はなんて臆病なんだろう。
こんなんじゃダメだ!ママを助ける為に僕はもっと強くならなきゃ!

「うん!僕、一人で行く!」

僕はくいと顔を上げ、大きな声でそう言った。
そしてそのままトラックの助手席に勢いよく乗り込んだ。

「よし、がんばって行って来いボウズ!」

おじさんはそう言いながらトラックの扉をばたんと閉めた。

「よし行くぞ」

次の瞬間に運転席からお兄さんの声が聞こえて、僕は慌ててガラス窓を開けた。

「おじさん!いつまでここの辺りにいるの!?僕ママを連れて帰ったらおじさんに会ってもらいたいんだ!」
「そりゃ嬉しいな!夏が終わるまでこのあたりにいるよ。また会いに来いボウズ!」
「うん!!!必ず会いに来るから!」

ブロロロロ
エンジンが大きな音を立て、トラックが走り出した。

「この森抜けるまで民家はないからな。ちょっとスピード出すぞ、窓から顔引っ込めてシートベルトしろ」

お兄さんにそう言われたのは聞こえたけれど、僕はそれを無視しておじさんに向かって大きく手を振った。
そしてエンジンの音に負けないように声を張り上げた。

「さようならおじさん!助けてくれてありがとう!!大好きだよ!!!!!」

その言葉に答えておじさんも何か叫んでいたけれど、僕の耳には届かなかった。
トラックは速度を上げ、おじさんの姿はみるみるうちに小さくなっていった。

2012/07/24