ここはどこだろう。 見上げた天井は暗い青。 あれ?もう夜なのかな? ううん、違う。あれは空の青さじゃなくてビニールシートの青だ。 なんか小さなテントの中にいるみたいだ。 あたりの様子が分かってくると同時に僕は口の周りの違和感にも気付いた。 ビニール袋に口が覆われて、息をするたびにその袋が大きくなったり小さくなったりしている。 それをとりはずそうと口元に手をやると、もじゃもじゃのおじさんの声が聞こえた。 「ぼうず、お前は気絶したんだ。手足の痺れが取れるまでその袋を口に当てておけ」 そういえばまだ手と足がじんじんしてる。一体僕の体はどうしたのかな?それにこんな事で体が治るの? でも僕を助けてくれたおじさんの言う言葉だし…僕は言われるままに袋を口に当てた。 おじさんは僕の様子を黙って眺めていた。けれど僕と目があうとふいと視線を逸らし、遠くを見つめながらぼそりとつぶやいた。 「あのコも今のボウズみたいによくそうやってたな」 って。 あのコ?あのコって誰だろう? 体はまだぴりぴり痺れていたけれどおじさんのその言葉が妙に気になって僕はおじさんの目をじっと見つめた。 おじさんは僕の視線に気づくと、少し照れた様な顔になった。 そして「昔、今のボウズみたいにしている女の子がおじさんの傍にいたんだ。その話を聞きたいか?」と静かな声で言った。 僕はビニール袋を口に当てたまま小さく頷いた。 「その女の子はボウズより1つか2つ年上だったかなぁ。 おじさんがまだこんな場所じゃなくアパートで暮らしていた頃に隣の部屋に住んでいたコなんだ」 おじさんはここにいない誰かを思い出すように目を細め、ゆっくりと話し始めた。 「女の子はお母さんと二人暮らしでね。でもあまりお母さんには構われてない様だった。 お母さんはあのコをひとりぼっちで部屋において何日も家を空けていた事が多かったし、たまに男を…友達を連れて帰ってきた時は必ず玄関の前で一人で座り込んでいた。」 変なの。 おじさんの話を聞きながら僕はまずはじめにそう思った。 だってそうでしょ? ママが毎日帰ってこなかったら、その女の子のご飯はどうするの? そのコにはパパがいる訳じゃないんでしょ?だったらずっと買ってきたお弁当とかになっちゃうじゃん。 そんなご飯を何日も食べてたら「栄養が偏る」ってゆってママが絶対怒るはずだもん! ママが僕に電話をかけてきてくれる時は必ず始めに「ちゃんとご飯は食べてる?」って聞くし。 …それともその子は自分でご飯作るのかな?フライパンとかも使えるのかも。僕は油がぱちぱち跳ねるのが怖くて使えないけど。 おじさんに「女の子のご飯はどうしてたの?」って聞こうと思ったけど、僕の想像が当たっていたらカッコ悪いのでそのまま黙っていた。 僕より一つか二つ上の女の子がフライパンを使えるのに、男の子の僕が火が怖くて使えないんて恥ずかしいもん。 「ある日、おじさんが夜遅く部屋に帰るとそのコはまだ玄関の前に座っていて、おじさんはひどく悲しい気持ちになったんだ。 だけどちょうどその時、景品でもらったスナック菓子を持っていてね。 おじさんは女の子それを差し出した。 もしかするとお腹がすいてるんじゃないかな?って思ってね。 でも女の子はおじさんを黙って睨みつけただけだった。 おじさんは困ってしまって『こういうお菓子はおじさんの口に合わないから食べてくれないかな』と声をかけたんだ。 すると女の子はいきなりそれをひったくりお礼も言わずに食べ始めた。 おじさんはその態度にちょっぴりがっかりしてしまったんだ」 うん。それは当たり前だと思う。 大事なおやつをあげて、そんな態度をとられたりしら僕だったら怒っちゃうな。 「おじさんは女の子に背を向けてそのまま自分の部屋に入ろうとしたんだ。 でもその時、小さな、とても小さな声で『おいしい』って声が聞こえたんだ。 おじさんが振り返ると女のコはほんの少しだけ笑っていた。その笑顔を見ておじさんはその『おいしい』って言葉が『ありがとう』って意味に 聞こえたんだよ」 変なの! 変なの!! 変なの!!! 「おいしい」は「おいしい」だよ!「ありがとう」なんて意味じゃない! おじさんは僕を助けてくれたいい人だし僕はすっかり好きになっていたけれど、おじさんのその言葉には頷けなかった。 僕はそんな間違った言葉で誰かにお礼を言った事なんてなんてなかったから。 ちゃんと学校で習った通りに… おじさんに反論しようと口を開きかけた途端、ふいにあの運動会のお弁当の事を思い出した。 僕はママにおいしいお弁当のお礼を言いたかった。 でもあらたまって「ありがとう」なんて言うのはなんかよくない気がしたんだ。 だってわざわざそんな事を言ったらママは必ず言うはずだから。 「遠足の時はお弁当を作ってあげられなくてごめんね」って。 ママにそんな風に言って欲しくなくて、そんな風に言わせずにすむように僕は違う言葉を一生懸命探した。 そして思いついたんだ。 「おいしかった」って言えばいいんだって。 そういう風に言えばママが遠足の時の事を思い出す事はないだろうし、僕がとても嬉しかった気持ちも伝わるだろうと思ったんだ。 あれ? 僕も「ありがとう」を「おいしい」って言葉にした事があるんだ。 じゃあその女の子もその時の僕と同じような気持ちでそう言ったのかな? ううん。まさかね。 僕のはママの心のこもったお弁当で、その子がおじさんから貰ったのは単なる景品のスナック菓子だもの。 僕とは全然違う。 やっぱりその子はただ言い間違えただけで、おじさんは聞き間違えただけなんだ。 僕は僕の中でそう答えを出しておじさんを見つめた。 でもなぜか今度はおじさんの目を見られなかった。だから代わりにモジャモジャの顎ヒゲをじっと見た。 おじさんは僕のそんな小さな違いには気づかずにそのまま話を続けた。 「おじさんはもう一度女のコの傍に行って顔を覗き込んだんだ。 本当に笑ったのかどうか確かめたくて。 けれど女のコの顔からは笑顔が消えていて、おじさんが近づくと食べかけのお菓子をポケットにしまってしまった。 もしかして取り上げられると思ったのかな?おじさんはそう思いついて女の子に聞いてみたんだ。 すると女のコは首を振り、『大事に食べる』とぼそりと言って部屋の中に入ってしまった」 おじさんはそこで言葉を切るとしばらく黙っていた。 僕は先を聞きたいと思ったけれど、なんとなく声がかけられなくておじさんが話出すのを静かに待っていた。 「それから2.3日たった頃、公園で一人で鉄棒で遊んでいる女のコの姿を見つけたんだ。 どうやら逆上がりの練習をしている様だった。 けれどなかなかうまくいかずにじれているのが遠目から見ても分かったから、おじさんはおせっかいを焼く事にしたんだ。 女のコにそっと近づき、足を上げたタイミングに合わせてお尻をぐいっと押してみた。 次の瞬間、見事に逆上がりは成功して女のコの顔にはぽかんとした表情が浮かんでいた。 そしておじさんと目が合うと事情を察したのかケラケラ笑い始めた。 玄関の前で見た薄い笑顔なんかじゃなくて、本当に楽しそうに笑ったんだ」 そのコはきっと凄く嬉しくて自然と笑っちゃったんだろうな。 僕はもう逆上がりが出来るけどやっぱり初めて出来た時は嬉しくて、鉄棒の上で大声で笑っちゃったもん。 「おじさんは女のコのその反応に気を良くしてしまってね、もう一度手伝ってあげようと足を踏み出したんだ。 すると足元でかさりと音がした。 見るとそれは折り紙の様な何かで、どうやら逆上がりをした時にそのコのポケットから落ちた物らしかった。 おじさんは慌ててそれを拾い上げた。 そして踏みつけてしまった汚れを払おうとした時、それが折り紙なんかではなくこの間おじさんが女のコにあげたスナックの袋だと気づいたんだ。 その袋は丁寧に皺をのばしきっちりと折りたたまれていた。 一体なんでまたゴミをこんな風に?と不思議に思っていると、女のコは鉄棒から降りてきておじさんからそれをそっと受け取った。 そして大事そうに自分のポケットにしまったんだ。 『あたしの為にくれたものだから』と言って。 おじさんはそれを聞いてなんとも云えない気持ちになってね。 この子はどれほど人から与えられずに生きてきたんだろう…と思ったんだ」 与えられない? おやつをもらえないって事かな?? そう言えば確か僕のクラスにもそういうコがいた。 「虫歯になるから」って理由でママがおやつをくれないって怒ってた。 きっと女のコのうちもおやつ禁止の家だったんだな。 「それからおじさんはいつもお菓子をポケットに入れておくようになったんだ。 女のコに出会ったらあげられるように。 お菓子と一緒にそのコにおじさんの気持ちが伝わればいいと思ってた。 「君は誰かに大事にされているコだよ」って事を知って欲しかった。 そうやって会う度にお菓子をあげているうちに女のコはすっかりおじさんになついて、色んな話をしてくれるようになったんだ。 そのコとの時間はくすぐったい様な、懐かしい様な不思議な気持ちになれてとても楽しかったけれど、一つだけ気にかかった事があった。 そう、女のコは今のボウズみたいによく倒れたんだ」 いきなり話が僕の方に飛んできてびっくりしてしまった。 その女のコも僕と同じ様に手足が痺れてこんな風にビニール袋を口に当ててたのかな? ん? もう手も足もしゅわしゅわしてない!いつの間にか元通りになってる!凄い! 「おじさん!もう平気になっちゃった!薬も何も飲んでないのにおじさんの云うとおりにしたら本当に治っちゃった!」 僕はうっとうしかったビニール袋を投げ捨て、その場で立ち上がった。 そして大きく跳ねてみる。おじさんに元気な姿を見せる為に。 おじさんは僕のそんな姿を何度も頷きながら眺めていた。 そして5,6回頷いた後、安心したように笑った。 「ボウズが治ったのはあの女のコのおかげだよ。 昔あのコと仲良くしてたからどうしたらいいか知ってただけさ。」 おじさんの声はなんだか少しだけ得意気だった。 僕が元気になった事がその女の子の手柄だとでも言うように、短い言葉の中に自慢の虫がぴょんぴょん飛び跳ねていた。 たぶん、おじさんは本当にそのコが好きだったんだな。 だって今のおじさんの目はパパやママが僕の事を誰かに話す時の目にそっくりだもの。 僕はおじさんにそんなに大事に思われている女のコが今どうなっているのかが気になった。 おじさんは今、この青いテントの中に住んでるみたいだけど女のコはアパートに住んでるんでしょ? 住んでる場所が違ってもまだちゃんと友達でいるのかなぁ? 「ねぇ、今その女のコはどうしてるの?まだおじさんと友達なの?もし友達なら僕会ってみたい!」 僕はそう言いながらおじさんに飛びついた。 おじさんは一瞬驚いた顔をし、その後大声で笑った。 でも、 僕は気づいてしまった。近くでおじさんの顔をよく見たから。 おじさんの目がとても悲しそうに笑っていた事を。 「あの女のコが今どうしているのかおじさんは知らないんだよ。 おじさんはあのコに嫌われちゃったから」 「ええっ!?どうして!?もしかして喧嘩しちゃったの!?」 僕は思い切り叫んでしまった。 こんなに優しいおじさんの事を女のコが嫌う理由が僕にはちっとも思いつかなかったんだ。 「喧嘩なんてしてないよ。だから嫌われた本当の理由はおじさんには分からないんだ。 ただ、おじさんはあの日……」 そこまで言うとおじさんはまた黙り込んだ。 今度はさっきよりずっと長く。 びゅう。 強い風が吹いて、青いテントの壁がばさばさ揺れた。 そして天井から漏れていた小さな光の粒がおじさんの顔の上をいったりきたりした。 光が揺れる度におじさんは違う顔をした。 ううん、表情は何にも変わってなかったけど僕には違うように見えた。 悲しんでるみたいに。 怒ってるみたいに。 戸惑ってるみたいに。 「おじさんはね、ある時いい思い付きをしたんだ。 女のコの誕生日にこっそりケーキを買ってお祝いしてあげようって。 その頃にはおじさん達は随分仲良しになっていたからね。 そのコが喜びそうな誕生日プレゼントもちゃんと用意したんだよ」 ほら、やっぱりおじさんは優しいよ! なのに嫌うなんてそのコはどうかしてるんだ! 「すっかりパーティの用意が出来ておじさんは隣の部屋に女のコを呼びに行こうとした。 でもその時、隣の部屋の玄関が開く音が聞こえたんだ。 どうやら家を空けていたお母さんが帰って来た様で、次の瞬間には女のコの嬉しそうな声が聞こえてきたんだ。 だからさすがにお母さんも娘の誕生日位は家にいるつもりなんだろうって思ったよ。 おじさんはほんの少しだけ残念だったけれど、それよりずっと「良かったね」という気持ちになったんだよ。 だって女のコがどれ程お母さんが好きかよく知っていたからね」 そっか。 そのコもママが大好きなんだ。 僕とおんなじだ。 僕はそれを聞くまで女のコの事をお話の中の登場人物みたいに思っていたけれど、突然そのコが僕の身の周りにいる誰かの様に思えたんだ。 「だけど…すぐに喧嘩が始まる声が聞こえてきたんだ。 おじさんの住んでいたアパートの壁はとても薄くて、少し大きな声を出すと会話が筒抜けだったからお隣さんの様子がよく分かってね。 どうやらお母さんは着替えを取りに来ただけで、直ぐに出て行くつもりらしかった。 女のコはそれを嫌がって地団駄を踏みながら泣き始めた。 おじさんは…おじさんはそれを聞いていてとてもつらい気持ちになったんだ。 泣いてる女のコを叱るお母さんの怒鳴り声が聞こえる度に『大丈夫だよ。おじさんがついてるから大丈夫だよ。おいしいケーキも素敵なプレゼントも用紙してあるから』そう呪文の様に唱えてお隣の喧嘩が終わるのを待ったんだよ」 ぎゅうう。 僕は手の平を強く握った。 そして握った手の平と同じくらいの強さで思った。 『お願いママ。出て行ったりしないで。そのコのそばにいてあげて。ケーキもプレゼントもいらないから一人にしないで』 って。 さっきまで僕は早く女のコがおじさんの用意した誕生日パーティに来ればいいと思ってた。 おじさんは優しいし、ケーキはおいしいに違いない。 プレゼントまで貰えたら凄く嬉しいと思う。 きっと楽しい誕生日パーティになるだろうから。 僕は女の子が喜ぶ話を早く聞きたかったんだ。 でも今は…。 女のコのママが気を変えて部屋に残ってくれる事をお祈りした。 僕はそのコの気持ちが誰よりもよく分かるから。 「喧嘩はお母さんが部屋を出て行って終わったけれど、その後もしばらく女の子のすすり泣く声が聞こえていたんだ。 おじさんは辛抱強く女のコが泣き止むのを待った。 本当はすぐにでも部屋を訪ねてパーティに招待したかったけれど…お母さんが部屋を出て行った事をおじさんに知られるのが嫌だろうと思ってね。だから泣き声がやんだ後、一時間もたってから女のコの部屋を尋ねたんだ。お母さんとの喧嘩なんて全然知らないふりをしてね」 ……やっぱりママは女のコの傍からいなくなっちゃったんだ。 女のコが一人で部屋で泣いている姿を想像したら、僕の胸の奥にまたあの大きな塊が顔を出した。 僕はママがいなくなっても泣いたりなんかしなかった。 泣いたりしなかったけど…ずっと泣きたかった。 だけど男の子だから我慢した。 泣き虫の男の子なんてママはきっと嫌いだろうから。 けどもし僕が女の子だったら、そのコみたいに大声で泣いてたと思うんだ。 「おじさんが女のコの部屋をノックすると、そのコはいつも通りの顔をして部屋から出てきたんだ。 それがホッとした反面、なんだかさみしくもあった。 その様子は女のコの日常を表してる気がしてね。 お母さんに置いて行かれる事に慣れてしまっているって日常を。 だからおじさんの心にはムクムクとそのコを幸せにしてあげたい気持ちが湧き上がってきたんだ。 おじさんは女のコに目をつむってもらい、その手をひいて部屋に上げたんだ。 それからケーキとプレゼントの前で「目を開けて」と声をかけた。 女のコはそっと目をあけると驚いたように目を見開いた。 そして目の前にあるそのコの名前の入ったケーキを食い入るように見つめ、ふいに顔をくしゃりと歪めた。 その後……その直ぐ後に女の子はおじさんに向かって言ったんだ。 『おじさんなんて大っ嫌い』って」 なんで!? 僕は女の子がどうしてそんな事を言ったのか全然分からなかった。 ママに置いて行かれて悲しかった気持ちは分かる。だからってママが出て行ったのはおじさんのせいじゃない!!!。 それともおじさんに八つ当たりしたの!?そんなのは間違ってるよ! おじさんの優しい気持ちが可哀そうだ!やっぱりそのコは凄く幼稚だと思う! 「おじさんは全然悪くないよ!それはそのコが悪いんだ!そんなひねくれた女のコにおじさんを嫌う資格なんかないよ! そんなコの言った事におじさんが傷つく必要ない!そんなコはこっちから嫌ってやればいいんだ!」 僕はおじさんを慰めたくて一生懸命そう言った。おじさんがそのコのせいで傷ついているんだったら僕が元気づけてあげたかった。 でもおじさんは僕の慰めの言葉を聞いても少しも嬉しそうにはしなかった。 むしろ今まで見た中で一番悲しそうな顔をして言った。 「あの時、そのコもボウズと同じような事を言っていたよ。 おじさんはあの後に女のコが泣きながら叫んだ言葉を一言一句全部覚えているんだ。 一体おじさんの何が悪かったのかが分からなくて、それからその時のことを何度も何度も思い返したからね」 「僕はそのコみたいにわからず屋じゃないよ!一緒にしないで!」 僕はすっかり腹が立ってしまった。その女のコと同じ様に言われたのがとても悔しかったんだ。 僕はそのコと違ってすぐ泣いたりしない。ちゃんと我慢できるし誰かに親切にされたら素直に感謝する。 フライパンは使えないかもしれないけど、八つ当たりで意地悪なんかしない。 全部「そうしなさい」ってパパとママに教わったんだ。だから僕はちゃんとそれを守ってる。 そんなひねくれた女のコと一緒にされたくないよ! おじさんは僕の顔をまじまじと眺めるとゆっくり僕の肩に手をのせた。 大きくてあたたかいその手のぬくもりを感じると、なぜだか僕の怒りはすっとひいていった。 そして代わりにおじさんの気持ちが手の平からさらさら流れ込んできたような気がした。 おじさんはきっと知りたいんだ。女のコがおじさんを嫌いだと言った理由を。 もしかしたらそれが知りたくて僕にこの話をしたのかもしれない。 だって僕の方がおじさんよりずっとそのコに年が近いもん。 僕の方がきっとそのコの気持ちが分かるはずだ。 僕はおじさんに協力してあげたい気持ちになった。助けてあげたかった。 子供の僕が大人のおじさんを助けてあげたいなんて思うのは変かもしれないけど、とにかくそう思ったんだ。 だからできるだけ大人みたいな声を出して僕はおじさんに尋ねた。 「そのコは一体なんて言ったの?覚えているなら教えてよ」 僕にそう言われるとおじさんは小さく笑った。そしてその後に僕の肩をぽんぽんと叩いてから話し始めた。 「おじさんは女の子のその言葉にうろたえてしまってね。 一体何がいけなかったのか問い詰めてしまったんだ。 すると女の子はぽろぽろと泣きだし、震える声でおじさんがそのコにしてきた事を責めたんだよ。 ………こんな風にね。 『おじさんはいつもあたしにお菓子をくれる。 あたしの為にコンビニのお菓子売り場で腰を屈めてお菓子を選んでくれる。 お母さん以外に誰もあたしの為にそんな事してくれないのに、おじさんは理由もないのにそうしてくれる。 あたしはそれがとっても嬉しくて、だけどそのせいでいつもどきどきしてる。 おじさんが今日もあたしの事を好きでいてくれるかどうかが心配で。 どきどきして息が苦しくなった時はおじさんから貰ったお菓子の包み紙や紙ヒコーキを見て安心するの。 でもおじさんはいつかきっと居なくなる。 お母さんでさえあたしと居るより男の人といる方が楽しそうなんだから、おじさんなんてすぐにあたしを嫌いになっていなくなっちゃう! そしたら包み紙も紙ヒコーキも押し花も全部捨てちゃえばいい。 貰ったモノならすぐに捨てられる。 捨てちゃえばはじめからなかったのと同じだから。 だけどおじさんに優しくされて嬉しかった気持ちはどうやって捨てればいいの!? おじさんに嫌われて悲しくなるくらいなら、その前にあたしがおじさんを嫌いになる! おじさんなんて嫌い!大嫌い!!』」 おじさんは女のコに投げつけられた言葉をひとことひとこと噛みしめる様に言った。 そして寂しそうな目で僕の顔を見つめると言葉を続けた。 「おじさんはそういう風に言われて嫌われたんだ。 その後、女のコはおじさんと口をきいてくれなくなった。 それから一か月程して、女のコが引っ越してしまうまでずっと。 おじさんにはいくら考えてもその時の女のコの気持ちが分からないんだ。 なんで自分が嫌われるだなんて思うんだろう?なんで自分が見捨てられる事が当たり前だと考えているんだろう? おじさんにはそんなつもりは全然なかったし、そのコだって始めは本当に喜んでいたんだ。 だから今でもあのコがそこまで思い詰めてしまった理由が腑に落ちないんだ。 …なぁボウズ。ボウズにはそのコの気持ちが分かるかい?」 肩に置かれたおじさんの手が少しだけ固くなったのを僕は感じた。 おじさんは子供の僕の事を馬鹿にしないで、本気で聞いているんだってその時思った。 僕はおじさんの期待に応えようと一生懸命女の子の気持ちになってみた。 僕がそのコだったとしたら。 僕にパパが居なくて、僕のママが僕をあまり好きじゃなかったとしたら。 そんな時、知らないおじさんが僕に優しくしてくれたとしたら。 僕だったらとてもうれしい。 おじさんにもっともっと自分を好きになってもらいたいと思う。 だから…きっと頑張ると思う。 僕がママにもっと僕を好きになって貰いたいから頑張るみたいに。 だから一生懸命運動会で走ったんだ。 だからストラップをあげるために崖から手を伸ばしたんだ。 だからママを困らせないように泣くのをいつでも我慢してるんだ。 だから…。 僕はいつもどきどきしてるんだ。 何か間違ってママから嫌われる事をしちゃうんじゃないかって。 だけど、ママは僕の本当のママだから、家から出て行ったとしてもずっと親子だ。 でも女のコとおじさんはそうじゃない。 もしおじさんをがっかりさせたら自分の傍からいなくなっちゃうかもしれないんだ。 それは…凄く怖いと思う。 だってどんなに頑張ってもいつも上手くいくとは限らないんだもん。 僕が全力で走っても一番になれなかったみたいに。 そうやってママをがっかりさせちゃったみたいに。 女の子はきっと僕よりいっぱいどきどきしていたと思う。 もしそんなどきどきがずっと続いたとしたら? そんなの辛くて凄く苦しいと思う。 その上、大好きな人から嫌われちゃったら悲しくて耐えられないよ! そうならない為にはどうしたらいいの? どうやったら自分の事を守れるの? そうだ! そんな気持ちになる原因を捨てちゃえばいいんだ!そうすればきっと大丈夫だ! そうすればもう、辛くも苦しくも悲しくもなくなるもん! うん、正解だ! あれ?でもなんの話だったんだっけ? そうだ、おじさんと女のコの話だ。 そのコがどうしておじさんを「大嫌い」なんて言ったのか考えていたんだ。 あ……! 女のコが悲しくなる原因はおじさんだ!だからそのコはそう言ったんだ! おじさんの事が大好きで仕方がないから「大嫌い」ってゆったんだ! 僕は女のコの気持ちがとてもよく分かった気がした。 だけど…これをおじさんにどうやって説明していいか分からなかった。 それに上手く説明できなくて、おじさんが間違って納得してしまうのが絶対嫌だったんだ。 それじゃ女のコの気持ちをとても簡単でくだらないものに変えてしまう。 だって…おじさんの事がなければ僕だってそのコを、ただの「ひねくれた女のコ」だと思って終わらせてしまったと思うから。 心の中にある沢山の袋のうちの一つにそのコの事を投げ込んで、きっと直ぐに忘れてしまっただろう。 その袋の中には「宿題がいっぱい出た時の気持ち」だとか「大嫌いな給食のおかずを食べなきゃいけない時の気持ち」だとか 「僕に意地悪をするクラスのコへの気持ち」だとかが入ってるんだ。 おじさんには女のコの想いをそんな場所に押し込めて欲しくなかった。 「……ボウズには少し難しい話だったかな?何もそんな顔で考え込まなくたっていいんだよ。 ボウズがおじさんの話を一生懸命聞いてくれただけで…」 「違うよ!僕にはそのコがなんであんな事を言ったのかわかるんだ! でもおじさんにどうやって言えばいいのかが分からないんだ」 僕は大声でおじさんの言葉を遮った。 おじさんは驚いた顔をした。でもそれは僕の言った事にではなく、僕の突然の大声に対して。 僕はとてももどかしい気持ちでそのまま話続けた。分かってもらえるか分からない、そう思ったけれど続けた。 「僕には大好きな日曜日があるんだ。その日曜日ともう一度同じ気持ちになりたくて僕は頑張ってるんだ。 でもいつもそんな日曜日にはならなくてがっかりするんだ。その度にそれが全部僕のせいだって思っちゃうんだ! 僕がダメだからパパとママは喧嘩するんだって。 そう思うのが凄く苦しくて、いっそ日曜日なんて無くなっちゃえばいいって、何回も神様にお願いしたよ。 けどやっぱり日曜日は毎週来て………だから僕は日曜日を嫌いになってやろうって決めたんだ! 僕が先に日曜日を嫌いになったんだから、日曜日が僕を嫌いになるのは当たり前だもん! そしたら少しだけ苦しくなくなったんだ。 日曜日が来る度がっかりしなくてすむ様になったんだ。 だってがっかりするのが当たり前なんだから。 きっと女のコは僕と同じ様な気持ちだったんだと思う。 おじさんが大好きだから、おじさんを大嫌いってゆったんだよ!」 途中から僕の言葉はだんだん早口になって、最後はまくしたてる様にそう言った。 そして僕の言ったことが伝わったかどうか確かめる為におじさんをそっと見た。 おじさんは困った様な顔をしていて、それと同じくらい困った様な声でこう言った。 「ボウズの言う事はよく分からないな」 僕は後悔した。 一生懸命女のコの気持ちを説明したけどやっぱり分からないんだ。 僕やそのコが感じる様な気持ちはやっぱりとっても変なんだ! 「でもな、ボウズがパパとママが大好きで、その為に頑張ってるって事はなんとなく分かったよ。 女のコの事はいいからボウズが自分で感じたことをおじさんに詳しく話てくれないかな? 上手く説明しようと思わなくてもいいよ。 ただおじさんはボウズの話が聞いてみたいだけなんだ」 おじさんはそう言うと僕を見つめてにっこりと笑った。 その笑顔を見て僕は驚いてしまった。おじさんは僕の変な気持ちの話をちゃんと聞いてくれようとしているんだ。 だってその笑顔にはちっとも嘘の匂いがしてなかったから。 僕はその事が嬉しくて、僕はおじさんに自分の気持ちを全部話した。 パパとママの事も、運動会の時の事も、どうしてもストラップを見つけなきゃいけない理由も。 一つづ話し始めた。 いつも考えていた。 いつも祈っていた。 どうやったら僕の事をパパとママが好きになってくれるか。 どうやったらその願いが叶うのかって。 パパの好きなお酒をプレゼントしたら僕を好きになってくれるのかな? なんでも一番になればママは僕の事を好きになってくれるのかな? どちらもちゃんと僕が出来ればパパとママは僕の側に居てくれたのかな? ただ、僕はずっと、パパとママに喧嘩をして欲しくなかったんだ。 クリスマスのプレゼントも、お誕生日会も、夏休みの旅行も全部なくていいからそれだけが僕の願いだったんだ。 …僕の事を好きになって欲しかった。僕と一緒にパパとママがいつも笑っていて欲しかった。 だから僕は頑張ったんだ。そうなってもらうために僕は考え付く事を全部やったんだ。 でもほとんどが上手くいかなかった。 お小遣いを貯めてパパにお酒をプレゼントしても必ず喧嘩がはじまったし、どんなに一生懸命やってもママが喜ぶ様な一番になれる 事はちょっとしかなかった。 僕は自分がとても駄目な奴の様な気がした。 パパもママもそんな事は言わなかったけれど僕が僕に対してそう思った。 そんな駄目な僕を僕は嫌いだ。 僕が駄目だからパパとママは僕を好きにならない。 僕の事が好きじゃないからママは僕を置いて居なくなっちゃったんだ! 僕は僕がずっと感じていたことを全部おじさんに話した。 話しているうちに喉がどんどんしょっぱくなっていった。 泣いてるつもりなんか全然なかったのに、気づくと顔中ぐしゃぐしゃになっていた。 おじさんは大きなビニール袋からタオルを出すと、僕のぐしゃぐしゃの顔を優しく拭いてくれた。 僕は二度もおじさんの前で泣いてしまった事が恥ずかしかった。 でも、恥ずかしいのと同じくらい、何故だかすっきりした。 一言話すたびに喉の奥の塊が砕けて、言葉と一緒にぱらぱらと僕の中から出ていくのを感じたから。 涙が止まるころにはなんだか体が少し軽くなった気すらしたんだ。 暫くの間おじさんは黙っていた。 僕はおじさんのが何にも答えてくれない事に不安になっておじさんの顔をそおっと見上げた。 するとおじさんはお月様を半分に割ったような口をしてこう言った。 「それは違うな。ママはボウズの事が大好きだと思うよ!」 おじさんの顔にあんまり見事な笑顔が浮かんでいたので僕は面食らってしまった。 もじゃもじゃの髭に隠れていた口がそんな風に開いている姿は、前に絵本で読んだ愉快な猫のお化けみたいだった。 「ボウズのクラスで運動会で順位を決めるみたいに、お母さんの作ってくれたお弁当に順位をつけるレースがあったとして、 もしボウズのお弁当がビリになったらどうする?」 突拍子もないおじさんの質問に僕は一瞬戸惑った。 でもすぐ「そんなはずない!!」って気持ちが僕の口から飛び出した。 「ママのお弁当はすっっっごくおいしいんだ!ビリになんか絶対にならないよ!」 僕はぷりぷりと怒ってそう言い返した。けれどおじさんは笑いながらこう続けた。 「そうだね、ボウズのお母さんのお弁当は普段はとてもおいしいだろうね。 でもたまたまその日、お母さんが風邪をひいてて色々な調味料を間違えちゃった…って想像してごらん? どんなに頑張っても上手くいかない時があるって事をボウズはよく知っているだろう?」 うん…。幾らママだって風邪をひいた時には失敗する事くらいあるかもしれない。 「お母さんは頑張ったけれど、お母さんの作ったお弁当はビリになってしまった。 ボウズはその時どんな気持ちがする?」 「…………たぶん、がっかりする」 僕は正直に答えた。 ママの作ってくれたお弁当がビリになったら、僕は自分がビリになった様にがっかりすると思う。 逆に一位になったら物凄く嬉しくて、みんなに大声で自慢しちゃうと思う。 「そうなったらボウズはお母さんの事が大嫌いになるかい? おいしくないお弁当を作ったお母さんに愛想をつかして家に帰らない…なんて事をするかい?」 「嫌いになんてならないよ!僕がママを嫌うなんて事絶対ないよ!! もしママの作ったお弁当がいつもおいしくなかったとしても、それでも僕はママが好きだ!」 僕はそう叫んだ。そんな事くらいで僕がママを嫌いになって愛想をつかすなんて事あるはずないから。 ママは僕の大事なママだ! たった一人のママなんだ! 「だったらママだって同じかもしれないって思わないかい?。 ボウズがかけっこで一位になれなかったからって嫌いになんてなるはずがない。 ママも同じようにボウズが大好きだと思うよ。 がっかりした顔をしたのだってボウズが大好きだからちょっぴり残念に思っただけの話さ」 僕は。 僕はおじさんのその言葉を聞いて凄くびっくりした。 ママは僕が好き? 一位になれなくても、お土産のストラップを無くしてしまっても? ママを喜ばせる事が上手くできなかったとしても? 僕はそんな風に考えた事なんて一度もなかった。 いつも僕がママにもっともっと好かれれば色んな事が上手くいくと思っていた。 パパとママも喧嘩なんてしなくなって、あの「大好きな日曜日」の時の気持ちになれると思っていた。 でも、おじさんが言った通り、もし立場が逆でママがビリになったとしても僕はママが好きだ。 ママももし僕と同じ気持ちなら、ママが家を出て行ったのは……。 「だからママが居なくなったのは決してボウズのせいじゃない。 ママにはママの事情があったんだろう。 その事情がどんなものなのかはおじさんには分からないけれど、ボウズが悪いからじゃないって事だけはよく分かるよ」 僕が悪い訳じゃない。 僕のせいじゃない。 じゃあ… 「じゃあ僕はどうしたらいいの?」 僕の口は僕の気持ちより先に勝手に動いてそう言った。 おじさんの言葉に僕はとてもほっとした。 でも「僕のせいじゃない」って意味を考えた瞬間、足元の地面がいきなり消えて宙に放り出された様な気持ちになった。 僕はずっと僕さえ頑張ればいいと思ってたから。 そう考えてさえいれば、次に何をすればいいのか迷わずにすんだから。 なのに「僕のせいじゃない」って事は「僕が何をしても変わらない」って事だ。 何をしても変わらないなら僕はどうしたらいいの? 「自分の感じてることを素直に言えばいいんだよ! ボウズはママに会って一番初めになんて言いたいんだい?」 ママに会って…。 もしママが困った顔じゃなくて、喜んでくれたら僕は………。 「会いたかった、って言うと思う」 「なんで会いたかったの?」 「そんなの決まってるよ!ママに会えたら嬉しいからだよ!ママが大好きだからだよ!」 「じゃあボウズは大好きなママにどうして欲しいんだ?」 「………」 おじさんの質問に僕は直ぐには答えられなかった。 僕はママにどうして欲しいんだろう? 抱きしめてほしい。 「よく来たわね」って頭を撫でてほしい。 一緒にご飯を食べてほしい。 僕の話をいっぱい聞いてほしい。 だけど、そんなわがままは言えない。言いたいけどいえない。 そんな事を言ったらママが困るし、ママを困らせたら僕は嫌われちゃう。 あ、でも…。 僕はママがそんなわがまま言ったとしてもママを好きだ。 そうだ!だからママだって僕がわがまま言っても僕を好きなままかもしれない。 だったら僕は………。 もしそれを言うのを我慢しなくていいのなら……。 ママにいつもそばに居てほしい。 「僕はママに家に帰って来てほしい。ずっと僕のそばに居てほしい」 俯いていた顔を上げ、僕はおじさんにそう言った。 するとおじさんはとても優しい目をして笑った。 「だったらママにそのままそう言えばいいんだ。 ママに嫌われるだとかママを困らせるだとかは考えなくたっていいんだよ。 もちろん大人には色んな事情があるからボウズの望みがかなわないかもしれないけれど、少なくともママにボウズの気持ちは伝わるからね。 そうしたらママは今よりずっと幸せな気持ちになれると思うよ」 幸せ? 僕が我儘な事を言ってママが幸せになるの? そんなの変だよ! 僕にはおじさんの言おうとしていることがよく分からなくて、一生懸命考えながら質問した。 「どうして我儘を言われると幸せになるの? 僕ならそんなの全然嬉しくないし、きっと幸せな気持ちになんてならないよ。」 「それはね、我儘を言われた事じゃなくて、ボウズが自分を好きだという気持ちが伝わるから幸せになるんだよ。 ボウズはまだ小さいから分からないかもしれないが、大人だって本当は不安なのさ。 相手の本当の気持ちが分からない時は特にね。 おじさんはあの女のコの本当の気持ちが分からなくて悲しい気持ちになってしまった。 でももしボウズの言うように……」 おじさんはまだ何かを喋っていたけれど、僕の耳にはもう聞こえなかった。 だって!だって!! 突然、そう本当に突然に…僕はおじさんの言ってる意味が分かった気がしたんだ! もしかしたらとびきり凄い発見をしちゃったのかもしれないんだ!! 僕がずっと我慢してた事、本当の気持ちをママに言うとママは「僕がママを好きだ」って事が分かるんだ。 そしたらママは嬉しいんだ。 僕がママに好かれてるって感じた時に嬉しいのと同じように。 だったらそれってこういう事だよね? 僕がママを幸せにできる。 ママだけじゃない、きっとパパだってそうだ! 僕がただ感じてること、「パパとママが好きだから一緒に居たい」って事を正直に言うだけで二人は幸せになれるんだ。 僕はそんな風に考えた事は一度だってなかった。 だって僕が上手くやれないからパパとママが喧嘩をするんだっていつも思ってたから。 だから僕はパパとママの間の「余計なもの」なんだって思ってた。 でも僕の存在がパパとママを幸せにできるなら……。 僕は「余計なもの」なんかじゃなくてパパとママの「大事なもの」なのかもしれないんだ! そう思った瞬間、海の底の様に青く染まった空間がぱぁと明るい空の色になった。 嘘じゃない。本当だよ! さっきまで青いテントの向こうから刺していたお日様の光がいきなり強くなって僕の目に映る景色の色を変えたんだ。 「ボウズ、どうしたんだ?」 その景色の変化にあんまりびっくりして大きく目を見開いていたらおじさんの声が遠くから聞こえた。 僕は視線を声の方向に向けると、そこには心配そうな表情を浮かべたおじさんの顔があった。 「僕分かったんだ!」 僕が興奮してそう言うと、おじさんは怪訝な声で僕に尋ねかえした。 「分かったって何が?…もしかして今言った『理由や必要がなくても好き』って事かい?」 「え?」 そう言えばおじさんはずっと何か喋ってたっけ。 僕は自分の大発見に興奮しておじさんの話をすっかり忘れていた事に気がついた。 「あのコはもしかして知らなかったんじゃないか、って話だよ。 世の中には『理由や必要がなくても好き』だという気持ちがあるって事を。 ボウズの言った『がっかりするのが当たり前』って考え方は『見捨てられるのが当たり前』って考えに似てると思ったのさ。 嫌われて、見捨てられて、いつか居なくなる…そういう風に考えているなら誰かからの好意に怯えるのも納得がいくって。 だってそのコにとって人からの好意は『あらかじめ失われるもの』なんだから」 ああ、 そうだ!僕はそういう事がおじさんに伝えたかったんだ! おじさんの言葉を聞いて僕は大きく頷いた。 女のコの考えは僕が日曜日が嫌いになったのと同じなんだ。 あの「大好きな日曜日」に味わった幸せな気分を知らなければきっと日曜日を嫌いになってやろうだなんて思わなかった。 日曜日はただ「パパとママがいつもより余計に喧嘩する日」でしかなかったと思う。 それはとても嫌な事だけど、それが当たり前の事だと思えば納得できた。 でもあの幸せな日曜日がもし何度も続いたら? きっと僕は怖くなる。 次の日曜こそきっと「大嫌いな日曜日」に戻ってしまうんじゃないかって心配で仕方がなくなるから。 だって今まで大嫌いな日曜日の方がずっと多かったんだもん。 幸せな日曜日がずっと続くと思えるほど僕は子供じゃないんだもん! もしもっと僕が小さければそう思えたかもしれないけど、泣くのを我慢できるくらいには大きくなっちゃったから。 何度も何度も泣きたいのを我慢したから。 きっと女のコにとってのおじさんは僕にとっての「大好きな日曜日」なんだ! ママが居ないのをひとりぼっちで何回も我慢して、我慢する事が当たり前になって。 でもそんな時おじさんが優しくしてくれて嬉しくて仕方がなくて。 そして……怖くなるんだ。 だって女のコにとっては自分の好きな人は居なくなるのが当たり前だから。 居なくなった寂しさをひとりぼっちで我慢するのが当たり前だから。 そう、女のコはおじさんを本当に嫌いになった訳じゃない。 ただ言う言葉を間違えたんだ。 怖い気持ちとそうなるのが当たり前だっていう思い込みに引きずられて。 僕には女のコの気持ちがとてもよく分かる。 きっと、これが、正解だ。 「女の子はね、本当はおじさんにこう言いたかったんだよ。 『大好きだから嫌わないで』って」 僕は顔を上げ、おじさんの瞳をじっと見つめてそう言った。 おじさんは僕のその言葉に顔を歪めると、いきなり立ち上がりそのままテントの外へ出て行ってしまった。 それがあまりに突然の行動だったので僕は一瞬あっけにとられた。 でもすぐにおじさんの事が心配になり後を追ってテントの外に出た。 怒らしちゃった!? どきどきしながら僕はおじさんの姿を探した。 おじさんはテントから少し離れた草むらでじっと佇んでいた。 手にはあのひび割れたメガネを持って、空を見上げながらしばらく動かなかった。 僕からはおじさんの後ろ姿しか見えなかったけれど、なんだか声をかけずらくて僕はそのまま待ち続けた。 さわり。 風が僕の頬をなでた。 その風はそのままおじさんの足元の草に届きゆらゆらと揺れる。 その度に草の表面がきらきら光って打ち返す波の様に見える。 青い空。 輝く草の波。 どこからか聞こえる虫の声。 なんだか、そのすべてがとても綺麗だった。 それはどこにでもある風景で、走りながら散々見たはずなのに…。 今はまるで違うものの様に僕には思えた。 なんでだろう? 僕は不意にそう思った。 なんでさっきと見え方が違うんだろう? ああ! そっか。 僕の心が変わったんだ。 狭いテントの中で世界が急に輝き始めた見覚えのある感覚に思い当たった。 僕は「余計なもの」なんかじゃなくてパパとママの「大事なもの」なのかもしれないって思ったからだ。 僕の考えがそう変わっただけで同じものが違うものに見えるんだ。 僕の心が世界を違う形に変えるんだ。 いてもたってもいられない様な不思議な気持ちになった時、おじさんがこちらを振り返った。 そしてゆっくりした静かな声で僕にこう言った。 「ありがとうボウズ。 ボウズのおかげでずっと考えていたことに答えが出たよ。 あのコが日々感じて、そして求めていた事がなんだったのかようやく分かった気がしたよ。 あのコは…多分とても強く愛情を求めていたんだ。 でも愛情を得る事を恐れてもいたんだ。 『それ』が無いのが当たり前でその状態に慣れきってしまっていたから。 慣れなければ辛くて仕方がなかったから。 なのにたまたま何の言われもなく手に入れた好意を失うのがとても怖かったんだと思うんだ」 さわり。 もう一度風が吹いた。 「おじさんはあのコが今でも好きだよ。 一緒にいた時間は楽しかったし、まるで自分の娘の様な気がしていた。 だからあのコがいつか愛情が身近にあるのが当たり前の生活を送ってほしいと心から思うんだ。 だけどな、ボウズ。 そんな風に生きてゆくのは実はそんなに難しいことではないと思うんだ。 少なくともボウズにはそれができるとおじさんは思う。 ボウズ、お前はこの世界に愛されている。 この世界の誰かに愛されている。 だから自分が愛されないことが当たり前なんだと思っちゃいけないよ。 そうじゃない考えを選ぶんだ。 パパとママの愛情を信じる道を。 それを信じてひとつひとつ言葉や行動を選べば、きっと未来はボウズの「大好きな日曜日」を用意して待っていてくれるから。」 風に乗り届いたおじさんの声は不思議な位に力強く僕の心を包み込んだ。 そして心の一番柔らかい場所から僕が今感じている言葉を押し出した。 「うん。 おじさんの言ってる事がちょっとだけ分かるよ。 僕はたった今、大発見をしたから。 もしかしたら僕はパパとママの『大事なもの』なのかもしれないって。 そう思ったら僕は…」 僕はこの世界の「余計なもの」じゃない様に思えたんだ。 この世界に居てもいい様な気がしたんだ。 気づくと喉の奥にあった塊はほとんど消えていた。 そのせいかもしれない。 こんなに楽に呼吸ができるのは。 僕は綺麗な世界の綺麗な空気を力一杯吸い込んだ。 そして心の奥で小さく縮んでいた気持ちを息と一緒に思い切り吐き出した。 「僕はパパとママが僕の事を好きかもしれないって思うんだ!!」 僕の中から生まれた大きな声は原っぱ中に広がって、そのまま青い空に吸い込まれていった。 |